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2007年11月19日 (月)

KALUA

_igp2036 ▲KALUA&LHO (KALUA 50th ANNIVERSARY)
2004.11.07@BLUE NOTE TOKYO

約40年前、小生が在学中には、大学が文化団体(文連)として公認している軽音楽団体は2つのビッグ・バンド(ライト、KMP)と4つのハワイアン・バンド(カルア・アイランダース、バール・アイランダース、モダン・シャックス、サウス・シー・フラワーズ)がありました。

今になって思うと、よくそんなに一つの大学にいくつもの公認バンドがあったものだと感心してしまいますが、各バンドとも練習にステージにと、忙しくバンド活動をしていたのですから、まさに良き時代だったと思います。

ステージの内容は大体3つに分かれました。
①学生団体主催のダンス・パーティー
②各地三田会主催のコンサート(ビータ)
③企業主催パーティーでの演奏

正確には資料が残っていませんが、3つあわせて年間100回位はあったと思います。その間をぬって春夏の合宿、TBSバンド合戦参加、そのための練習と、ホントに忙しかった!

その年間100回のシゴトの内、1/3はカルアと一緒のステージでした。「カルアとライト」というパッケージが主催者にとって魅力的だったのと、片方のバンドに来たシゴトの相バンに、もう片方を指名する・・というマネージャー同士の固い絆の上に成り立ったものでありました。(この辺の詳細は別記事にてのちほど・・)

カルアの魅力は、スタンダードなハワイアンに飽き足らずに、時代を半歩先読みして、常に変化させていくセンスにありました。目指す音楽に合わせてメンバーを見つけるのか?入部してくるキャラクターにあわせてバンドのコンセプトを決めるのか?その辺は定かでありませんが、学生離れした、大人でオシャレな音楽を聴かせてくれるグループとして人気を集めていました。

小生が入学した頃、カルアは「ドン・ホー&アリーズ」の様なモダン・ハワイアンを目指していました。ソロ・ボーカルの故 依田さんを前面に押し出したステージを見て、新入生の小生は「こりゃーすげえ!大人だなー!流し目してる!色っぽいなー!」と、たまげた記憶があります。

その後、フォー・フレッシュメンのモダンなコーラスもレパートリーに取り入れつつ、女声リードの時代へと移っていきました。いち早くセルジオ・メンデス&ブラジル66にチャレンジし、バンド名もThe KALUA’68と改名しました。三原光恵さんの歌う「マシュケナダ」は素敵でした。

1年経過する度に、’69、’70とスタイルを進化させていきました。宮崎正子、田中裕子、2TOPの時代も花がありました。フィフス・ディメンションやルグラン物などがチャーミングでした。それと、お二人の短いスカートからはみ出たおみ足。シーセクなドリオ。そりゃもうたまりまへんでした!

とまあ、現役時代のカルアの魅力を手短にお話すると、以上のような感じであります。LHOは3年前にカルア50周年のパーティーのお話をいただいて、演奏させていただきましたが、その時のカルアの後輩達の演奏は、R&B、ブラコン、フュージョンと、時代とともに驚くほど進化していました。先輩からの「時代先読みの精神」は充分に受け継がれているなあ、と感服した次第であります。

(LHO橋本)

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コメント

♪ブルーノート東京での「KALUA50周年会」から、もう3年が過ぎたんですね…。
「ハワイアン・ホスピタリティー」っていう曲が大好きでした。また演奏してみたいです。
直前リハに前田憲男先生がみえた時の、ただならぬ緊張感を昨日のことのように思い出します。

50周年!あの企画は熱かった!!

”どうせやるならホテルじゃなくてブルーノートでやりませんか?”
”それもLHOをバックに懐かしいメドレーを我々が歌うんです、アレンジは前田先生にお願いしましょうよ。”
”ゲストはタイム5とサーカス””日程が合えば現役のフォーフレッシュメンに出演交渉しましょう”・・・・
、と夢のような構想をまとめあげ実現できましたね。LHOの皆様には何といって感謝してよいか分かりません。昔のビータやダンパ、そしてリサイタルなどでもっとも息の合った皆様との共演こそ50周年に相応しかったと信じております。
あれ以来、何か燃え尽きてしまいまして我々OBバンド(K's Co)も向上心を失ったかの様な年月を過ごしてしまいました。

60周年??いやいや、どうなっているのかな。
爺さんバンドの出番は無いかな?
もしまだやっていたらもう一度共演をお願いします。
その日まで皆さんお元気で!

いや懐かしいですね。
大阪の田舎から出てきた私には、ともかくカルアはお洒落でした。
マシュケナダを歌っている方が三原さんという方だとは存じ上げなかったですが、強烈な印象が残っています。
あの、伝説の宮崎正子さんは遠くで眺めているだけでしたが、ルックスともにカッコ良かったです。

あっ、タンゴアンサンブルもありましたね。

それから、文連公認ではありませんでしたがデキシーランドジャズクラブも。私はKMPの前1年間は、デキシーにおりました(なにせ大学6年いましたから)。その倶楽部は今は大学にはなく、OB会のみが存在しています。彼らの結束は強く、一昨年メンバーの一人が経営している京都西陣の旅館でのライブに行ってきました。

さらに、モダンジャズソサエティというこれも文連非公認の団体がありましたね。LHOの謎の宝石商も一時期顔を出してましたね。我々の代のあとけっこう良いプレーヤーが出ているみたいです。

後年、LHOと良く競演する小川理子ちゃんが参加することになる”クロスオーバー研究会”も萌芽的にあったような気がします。

こうやってみていくと、、なまじの音楽大学よりよっぽど充実してたように思いますね。

■橋本さん、カルアを題材にして下さって、どうも有難うございます。

■私は、音楽に関して高校時代まではカントリー&ハワイアン系には全く興味がありませんでした。
そして入学後、日吉のオリエン時に先ず目指したのは(大学対抗バンド合戦で馴染みだった)ライトの演奏している教室でした。
演奏終了後、入部希望者は各楽器の前に並ばされ、私は全く譜面が読めませんでしたので、まあドラムスなら何とかなるだろうと、(とんでもない甘い考えでしたが・・)ドラムスの列に並びました。
後ろで見ていると、レギュラーだった橋本さんが一人ずつスティックを持たせて、「ちょっと、コレやってみてよ・・・」とテストされているのを見て、<アッ、結構みんな出来るんだぁ・・こりゃあ、この人数だとレギュラーになんかなれる可能性は限りなく低いなぁ・・・>と橋本さんの前に行くことなく、そっと退散。

その後、カルアのオリエンが二幸食堂であると聞き、方針を節操なく変えて、一路そちらへ。
そこでレギュラーのフレッシュメンものを聴き、うわあこりゃあかっこいい・・・と相成り、「ボ・・ボク、入ります・・」となった次第です。

■カルアには、歌で入りましたが(その時、TESSY&ヨダレもいました)、ある時バンマスの本間さんから、「キミーッ、カルアではなんか楽器ができなきゃダメだよ・・」の一言で、「はいッ、じゃあドラムスをやりま~す」と返答、レギュラーだった井上さんのボーヤとなりました。
その後、トランポ長を拝命し、練習、ダンパ、コンサート等と、多忙なバンド生活を送りました。

■トランポ車はVWのバンでした。
ある時、ゴトシが終わって、相方のミッケンとトランポ車に楽器、アンプ等を積み込んでいました。
が、最後の生ベーがどうしてもうまく収まらない。
ええいままよ、と生ベーのネックを外に出し、ドアが半開きのまま一路正満寺へ。
到着後、ミッケンと車の後ろに回ってみると、ウワ~~~ッ!生ベーがな~い!!!えらいこっちゃ、どうしよう??2人共、冷や汗がダラーッ。
とりあえず来た道を車で戻りつつ、
鵜の目鷹の目で探しました。「アレッ?ミッケン。あの街灯のところに立てかけてあるの、あれなに?」と、目を凝らすと、あった、あった、生ベーだっ!
ボロボロに壊れっちまった我らが生ベーが、街灯に照らされて寂しく一人で立っていました。
その後の処理は、記憶が曖昧です。
多分、樹谷さん、小池さんから大目玉をくらって、ミッケンと反省酒を飲みに行ったんだろうなあ・・。

■レギュラーとOBバンドを聴くにつれ、徐々にハワイアン・アレルギーが癒え、インビテーションとか、ドン・ホー&アリーズっていいなあと思うようになりました。
♪HawaiianHospitality♪
♪I'll Remember You♪
♪Taste Of Honey♪
♪Night Life♪
・・・etc
そして、新婚旅行はホノルルへ。
そこで念願のドン・ホーのショーを観ることができました。(ついでに、ダニー・カレイキニのショーも観ましたが・・。丁度、♪Feeling♪が流行っていた時代でした)

■そして、真っ先にドンバ用語の洗礼を受け、得意気に使ってましたね・・。
ゴトシ時のドンバ控室で、「・・・なんだ・・・シーメはまたソークかよ・・」なんて。

■演奏旅行は、今となっては一番の思い出です。
カルアの所帯道具一式(ピアノは除く)生ベー、エレ・ベー、ギター&ベース・アンプ、ボーカル用アンプ&スピーカー、そしてドラムセット等を列車に持ち込み、乗り換え時には一式を抱えながら、ホームと階段を駆けずり回っていました。

■ライトは、メンフ台が大変でしたね・・。それとマージャン・セットは必需品でしたね。
そして連日連夜の移動でトランポ要員は疲れ果て、ライトのさる要員は駅で列車を待つ寸時の間、タン壺を枕に寝ていたとか・・。

そしてイタオドロだったのは、夏休みにライトと相バンで数箇所での演奏旅行に出かけた時、ライトOBのドラマー森山さんが我々のビータにずっと同伴したこと。
OBが仕事を休んでまで来ちゃう・・と感嘆。
それくらいビータには独特の魔力がありました。

■カルアF年時のリサイタルは赤坂のラテン・クォーターでやりました。
ゲストは弘田三枝子さん。
そのバックを橋本さん達にお願いしました。
が、本番当日、ナナナンと、橋本さんは居らず、
(橋本さんが大遅刻したのか、来なかったのか・・記憶が曖昧)、いきなり私にドラムをやって、との緊急依頼。
こりゃあマズイ・・いきなり初見で本番なんて出来ないよ・・まいったなあと思いつつも、他に誰もいない。
南無三、とドラムの前に座り、汗ダラダラでみんなについてった、というのも思い出です。

橋本さん、覚えています?

●sweetieさん

そうだ。ゴンタを忘れていました。余り付き合いがなかったもので。
知人は指から血を流しながらグリサンドしていた鈴木孝雄PFぐらいでしょうか。

sweetieさんは6年で卒業でしたか。
ライトとカルアの譜面の面倒を見ていたケンオジは何年間いたんでしょうね?

皆さん、渋谷のジャズ喫茶オスカーには、よくタムロしてましたね。
増尾、直居、川崎、神谷のギターバトルとか、中村誠一たち国立音大のグループとか、店の企画も良かったです。駒大の小林啓子グループも人気がありました。
ニューハードも月1回出演していて、客が譜面を持参すると初見で演奏してくたりしていました。バタヤンDRがカッコよくてsweetieさんやジミー達と色々教えてもらいました。

在学中、理子ちゃんはフュージョン・バンドで日本語で曲を作って歌っていたらしいですね。いつごろから宗旨替えしたんでしょう?

来年、LHOと理子ちゃんは
7月26日(銀座BRB)
9月7日(軽井沢大賀ホール)
で競演する予定です。

大阪のビータも是非実現させたいですね。

●ジミーさん

ビータ関係は別枠でと思っていましたが、色々連鎖的に思い出すから一緒でないと無理ですね。

私も1年間森山さんのボーヤをやりましたが、それはそれはキツかった。当時、東海道新幹線はすでにありましたがなかなか乗せてもらえずに、夜汽車での移動が多くて大変でした。ビータの最後には疲労困憊で血尿が出てました。

森山さんは私が卒業するまで、ビータと都内の主なシゴトにはずーっと出席されていました。
毎年呼んでもらっていた夏の岡山にもお見えでした。ハイソとカルアとライトが一緒のコンサート(W大のコンボはどこでしたっけ?)で、皆楽しみにしていたイベントの一つです。ある夏、岡山に前乗りして森山さんを筆頭にジミー、衣奈、東久邇、中上川なんかで寿司屋に行って、日本酒で盛り上がったのを憶えています。

カルアはワーゲンのトランポ車だったですが、ライトはDRセット、WB、ミュート・ケース、譜面フォリオ・ケース、譜面台、アンプを3台のシータクで運んでいました。荷物を脇道に隠して、一人手ぶらで空車に手を上げて、停車するやいなや、荷物を持った2名が物陰からバラバラ現れて強引に乗り込むという手口です。

ラテンクオーター・ドタキャン事件はもちろん憶えています。今更言い訳はしませんが、入社まもなく、直属の制作課長が小田急に飛び込み自殺して、仕事がメチャクチャになった時期で、単純にスケジュールの記入ミスです。その数年後、弘田三枝子さんのDを担当した時期がありましたが、それも何かの縁でしょうか?ラテンクオーターの事は何も言ってませんでしたよ(笑)

■小生は大学1年生の1年間、sweetieさんやマヌエラの店主である中田さんと同じKMPニューサウンドジャズオーケストラに所属しておりましたが、ビッグバンドで歌う夢は卒業まで叶えられそうになかったため、2年生からカルアに転部しました。
カルアでは2ndボーカルとターギを担当し、卒業するまで、小生の隣で正子が歌っておりました。
当時、正子は他大学にまで響きわたるほど有名で、その隣で歌っているというだけで、ライトやハイソの連中から羨まれたものでした。
とにかく、カルアの話題が出ると、必ず正子と裕子の話になり、一般的には当時、男性群の存在がいかに薄かったということを自覚させられたものです。
そのコンプレックスが現在の自分につながって、あちこちのジャズクラブで歌いまくっているのだと思います。

■カルア時代の生活は、たまたまミージ、ミッケン、小生の住んでいたところが近かったせいもあり、極端な話、四六時中、3人でつるんで遊んでいました。自由が丘のファイブスポットで、何回かナンパもしましたが、一度たりとも成功したためしはありませんでした。

■当時のレパートリーは、セルメン、フォーフレッシュメン、フィフスディメンション、ランバート・ヘンドリックス・ベイバン(ロス)、アニタカーシンガーズ、シンガーズアンリミッテッド、ジャッキー&ロイ、B・S・T・・・。
アレンジをお願いに、日テレの11PMのスタジオまで前田先生を尋ねて行ったこともありました。

■合宿で一番想い出に残っているのは、ヤマハの合歓の里で、隣のブースにナベサダさん達が練習していたため、覗きに行っては、増尾さんや鈴木チンさんに遊んでもらったことです。

■何と言っても、最高の想い出はヤマハライトミュージックコンテストの関東甲信越大会のジャズ・ロック・ボーカル部門で優勝し、その後、全国大会で総合3位を獲得したことです。この時、グランプリはハイソがとりました。
これがきっかけで、東芝リバティーからLPとSPのレコードをカルアの歴史の中で始めて出しました。
小生、卒業後、S堂に入社し、即、福岡県の久留米という田舎町に赴任したのですが、その田舎町のレコード屋にカルアのLPとSPレコードが売っているではありませんか!感動して涙が出そうになりました。今では、プレミアムがついて相当高い値段がついているようです。

■今から思うと、60年代後半から70年代にかけては、POPs音楽ですばらしい名曲が多数、生まれていますね。恥ずかしながら、当時はシナトラはほとんど聞いていませんでした。現在、「シナトラ命!」で歌っている自分を振り返ると、やはり年を取ったということなんでしょうね~・・・。

ここに書き込んでいる皆さんの半世代ほど前に、高校時代に楽友会で唄っていた器用で色男の鈴木光雄という男が居ました。彼は家が浜松でいつもうちに泊まりに来ていました。鈴木と私は高校2,3年生の時(昭和32,3年頃)にFourFreshmenのLPを聴いてコード分析を既にしていたのです。16,7歳の頃です。

その鈴木が大学に入って2年目といっても2年生になっていたかどうか怪しいのですが、いつの間にか私に断りなしにカルア・アイランダースに入りました。当時、桑原というしっかり者がスチールを弾いていました。そこで、鈴木がFFサウンドのアレンジをしたのです。2年ほど上には岡野さんが居ました。岡野さんなんかは伝統的なハワイアンをやっていましたから、FFサウンドにはさぞかし驚いたのだろうと思います。

というわけで、皆さんがカルアのFourFreshmenサウンドを語るとき、鈴木を忘れてはいけません。そんな経緯で鈴木光雄はハワイアンの歌にFFサウンドを持ち込んだ元祖なのです。

私も50周年コンサートにはジミーや柴山達に呼ばれて参りましたが、そこで何十年ぶりに鈴木光雄に会いました。頭はライトハウスでした。

カルアのFourFreshmenサウンドのルーツは私が知る数年前からあったわけですね。と言う事は大野雄二さんが在学中でライトのパーティー物なんかのアレンジをしていた頃でしょうか?

ハイソの市浦さんがフォーフレッシュメン・ファンクラブの会長というのも意外で面白い感じがします。昨年横浜ジャズ・プロムナードで久しぶりに市浦さんをお見かけしましたが、その時はローグスでBTBを吹いていらっしゃいました。

大野雄二は、高校のときは1年下です。大学は39年卒で鈴木より先に卒業したと思います。大体同じ頃に学生だったわけです。
素晴らしいベースを唄っていた鈴木がカルアに行ってからファルセットでハイトーンで、しかもFFサウンドをやったのには驚きました。

市浦も変わった人です。ミスター・フォーフレッシュメンのような男です。私もFourFreshmenSocietyのメンバーで付き合っていますが、彼らは2003年の後は来日していません。来年も来ないそうです。呼び屋が、もんプロの西蔭からアートプロモーションの石塚に代わって、前に進んでいません。フレッシュメンは2回マヌエラに遊びに来ました。

カルアの柴山に初めて会ったのは、マヌエラではなく市浦の家でです。その時、ピアノの鈴木みよも来ていました。今考えても変なメンバーです。

●若山先生が塾高の頃はまだジュニア・ライトがあった時代ですね。私や平山の頃はすでに影も形も無くなっていました。塾高当局からおとりつぶしの沙汰があったそうです。聞くところによると、私より3学年上の五歩一先輩が色々派手におやりになったのが原因と、もれ伺っています。

私が今使っているドラムセット(ROGERS)の上から2つ目のTTは故 五歩一先輩が生前使われていたものです。ゴブさんは大学に入ってから企画演出グループ「風林火山」を創り、コンサートやパーティーを主催していました。私達もライトやコンボでよく出演していました。卒業されてからNTVに入社して「シャボン玉ホリディ」「今夜は最高」といった番組を担当していましたが、51歳の若さで亡くなられました。

●SBYM先輩はすでに在学中から行動半径が広かったと記憶しています。よく蒲田の中川医院(ケンオジ宅)でもお目にかかりました。

当時、ライトのリズム隊はケンオジの家の応接間で練習していました。ケンオジは優しくて、若手女性ジャズ歌手の卵や、ポンジョのトリオなどの面倒も見ていました。私が教えていたポンジョのドラマーは、何故かケンオジの奥さんになっています。

今になって思うと、カルアのバンマスだったSBYM先輩は、ケンオジにカルアの方向性とか譜面の相談に見えていたんですね。

●JAZZ BIRDのみよちゃんは学年は1年上になります。ハイソではベイシーのコピーが大変に上手でした。私が1年生の時、みよちゃんから連絡をいただき、生まれて初めてジャズ喫茶でドラムを叩かせてもらいました。みよちゃんのピアノ、ギターが増尾さん、ベースが高橋直でした。場所は三鷹だか吉祥寺だか忘れましたが鮮烈に憶えています。

日テレの五歩一はよく知っています。下の娘が五歩一の坊やと幼稚舎で同級生でした。彼がライトだったとは知りませんでした。SBYMはそんなに偉かったのですか。デカイ面していると怒られるかな?

●いやぁー、ビックリです。久しぶりにLHОのブログをのぞいたら、橋本さんが書いて下さったカルアやJrライト関連の話で盛り上がっていたんですね。橋本さんありがとうございます。
●Jrライト取りつぶしの件、五歩一さんたちが主催で、我々の学年の悪ガキ何人かも連座で捕まり、退学、けん責となりました。その内容は、かなり大規模にダンパをやって、飲酒・喫煙で捕まったというもので、今の時代から考えるととても可愛らしいものです。ただ、学校側から、そのような場所に始終出入りする連中として目をつけられていたJrライトが、これを口実にとりつぶしにあったという風に当時の生徒連中は理解していました。
●高校1年の時、クラスルームの隣がブラバンの部室で、休み時間に野口さん(KMPの創設者)が始終アルトを吹いていました。それに憧れてブラバンに見学にいったのですが、結局入らずじまい。Jrライトの練習も、裏中庭の壊れかけた体育館でやっていたのに何回か行きました。その頃はケンオジはピアノやベースを弾いていました。
●大学に入ったら、一年上だったはずのケンオジがどういうわけか同じクラス。それ以来べったりとくっついて、今日まで世話になっています。
●鈴木みよ、市浦氏とは、早慶学生会主催のコンサートなどでいつも合いバンだった関係で、学生時代から今までお友達してもらってます。
本間時代には、みよちゃんの家でカルアは練習をしていた、という位ちかいお友達です。
●若山先生とは、FFの話をしに市浦氏の家に呼ばれたとき、みよちゃんが一緒に行ってくれて、それでお会いし、さらに先輩の鈴木さんの話で盛り上がったというわけです。若山先生には、Ksスタートのきっかけと数々のアドバイスをいただいており、大恩人です。
●ダラダラと長くなってしまい申し訳ありません。
始めての書き込みで、みんな書いたもので、ご了承ください。(我々の代のバンマスは依田です)

●追伸:そういえばケンオジにお世話になった大きなこと。大学2年の春休みでしたか、コンボの仕事がきて練習するので一緒に来ない、と誘いを受けて、熊坂さんと同期のライトのギターだった深沢作太郎(?)さんの代々木の家にうかがったのです。
そこで出会ったのが、橋本さんと増尾さん。その歯切れのよいドラム、所見で譜面を読んで弾いてしまうギター。まだ二人とも高校生と聞いてビックリしました。その後、増尾さんにはきれいなお姉さんがいたこともあり、ギターを習うと称して、しばしば彼の家にもあそびにいくようになり、カルアのギターコーチもしてもらいました。(僕はその日、ただそこにいただけなので、橋本さんはその日のことなど覚えていないだろうな、、、)

●3日間ほど伊豆半島をうろついており、返信がおそくなりました。

ゆーこちゃんへ:下田の里山にある「昭吉の湯」が大変良かったです。宿泊設備は無く、入浴料500円で風呂だけですが、私がいままで行った中でBEST3に入ります。

●ゴブさんが亡くなった時、ご子息はまだ高校生でしたが、告別式では母親に代わって立派に挨拶していました。その挨拶を聞いて徳光さんが号泣していました。

●SBYM先輩がご指摘の通り、塾高は歌舞音曲には大変キビシかったです。私が引っ張り込まれていたエレキ・バンドは、ビーチ・ボーイズ・ファンクラブのお手盛り公認バンドで、ビーチ・ボーイズが来日した時にパーティーを開き、エレキ・バンドも出演しましたが、誰がチクったのか、2~3日後には譴責処分となり、主催者とバンドのメンバーの名前が、正門前の廊下に張り出されました。

●深沢さんのお宅に伺った事は、余り憶えておりません。脳ミソが収縮し始めてる証拠です。

●ケンオジで思い出すのは・・
私が新入生でライトのオリエンを見に行った時の事ですが、メンバーが揃っていてドラム・セットもあるのに、ドラマー(森山さん)がいません。定刻も過ぎ、ドラムレスで演奏を始めましたが、ベーシスト(ケンオジ)が弾きながら右足でハイハットを2,4で踏んでいるのです。そのうちケンオジがニコニコしながら「君、ドラム叩くの?やってみる?」と言うのでおそるおそる叩かせていただいただきました。H.Jの「サンデー・モーニング」だったと思いますが、リズム・ブレイクの場所に来るとHHが動きません。ケンオジが手でHHシンバルを掴んでいるのです。「お休みだよ」ってニコニコしながら。

●熊坂座長で思い出すのは・・
私が大学1年の時、座長から言われて1人で横浜石川町にドラムを叩きに行きました。店の場所と名前だけしか言われてなくて、行ってみると10坪ぐらいのカウンターしかないスナックで、妙齢のオランダ人のオバチャン・ピアノと日本人のベースがいました。ジャズだかサーカスだかわからない音楽でした。お客はジンガイと日本人が半々くらいでした。2階で休憩するのですが、休憩時間の度にそのオランダ・ヤノピとポンニチ・スーベがずーっとスーキしてるんですよ。これ見よがしに。残るは18歳の私1人。
その日はポンニチ・スーベから3000円もらって終電で帰りました。
「海を見ていたジョニー」や「本牧メルヘン」の少し前の、横浜らしい話です。

■若山先生がコメントなされていました、カルアOB鈴木さんは、一度OB会でお目にかかったことがあります。
三原さん曰く、「あの方、カッコよかったのよ〜っ。
あこがれの人だった・・」と、目を輝かせながら。
カルアの4Freshmenスタイルの開発者であったこと、
始めて知りました。

■ケンオジさんでは、私も同じ思い出があります。
なにかのダンパの時、私が遅れて会場に入りましたが、
既にダンパはスタートしていました。
ステージに近づくと、ケンオジさんがスーベを弾きながら、且つハイハットを踏んでいました。
「すみませ〜ん、遅れて・・」と言ったら、
「いいんだよ・・俺は両方できるから」と、
ニコニコしながら・・。
ありゃあケンオジさんの特技ですね。

五歩一の事件は私どもは知りません。もちろん、若くして亡くなったことは知っています。

昭和33年6月に北海道修学旅行で、札幌の自由時間でのこと。すすき野の市電の停留所付近に一軒のジャズ喫茶がありました。銀座のACBなどより大きな店でしたが、塾高生で一杯になってしまいました。ハワイアンのバンドが真昼間からライブをやっていました。

誰彼ともなしに「わかやま~、うたえ~」と声が掛かり、バンドと打ち合わせた結果、「ダイアナ」を歌ってきました。制服姿でです。

その頃は、日吉の駅の向こう側でタバコや酒を飲んでいる高校生をとっ捕まえていた黒チンという教師がいましたが、サッポロでは幸いつかまらず武勇談として、今でもその時のことを話す奴がいます。藤沢に住んでいるノリジという同級生です。

そうそう、当時の高校教師に長尾さんという国語の先生がいました。お嬢さんがいるのですが、最近は会っていませんがマヌエラにも何度か来ています。顔が見たいなら、
http://www.littlemanuela.com/PP0402.htm
を見てください。

■ちょいと時間がありますので・・コメントいたします。話がわき道にそれますが・・・ご容赦下さい。
本KALUA篇で使用されています写真で、アレッ?と、あることに気づきました。
このシーンは確か♪Shiny Stockings♪を歌っているはずです。
しかもユウコがのけ反って歌っているし、男性陣はマイクに向かっています。多分、♪・・・Then Shi-
ny Sto-ckings!♪とクレッシェンドで盛り上がっている部分のはずです。
が、よく見ると、一人だけマイクからはずれて、何やら横を向いている人物がいます。TAKUUです。
これって、TAKUU何やってたの?!

●学ランでジャズ喫茶出演ですか!
「ダイアナ」でなくて「高校3年生」にすれば良かったですね。
まだ発売前ですか(笑)

若山先生から6年後に私達も北海道修学旅行に行きました。
阿寒湖畔のアイヌ部落に行った時、土産物屋の奥から
ジャズが聞こえてきました。
アイヌのねーちゃんがキャノンボール・アダレイを聴いていました。
自由時間だったので、部屋でコーヒーをご馳走になりながら
ジャズの話に花が咲きました。
その後、そのピリカメノコからは何回か手紙をもらったりしました。
実にイヨマンテな話で・・

●他にカルアで思い出したのは

舞台をを広く使った楽器レイアウトや、踊りなどにも工夫が見られ、
楽しいステージングだった。

井上さんというジミーの先輩ドラマーのバスドラム・ヘッドには
石原裕次郎のサインがあった。

うわあ!ナシハが随分ルイフな所までぶっ飛んで、もうじき還暦の私でも???みたいになってきました。
まさか若山先生が高校生時代の国語の先生まで登場するとは感激!!の儀。
KALUA話題でこんなに盛り上げて戴きまして身内としては大変嬉しゅうございます。コメント数20以上行きたくなりました。

伸ちゃん、
舟木の「高校三年生」は昭和38年です。随分新しい話です。唄いたくても未だ生まれていないよ。わっはっはっは!
デビュー曲なんですってね。

SBYMさん、君達の頃には長尾さんは高校の先生をやっていたのですか?

ちなみに、昭和歌謡史的なサイトで昭和33年を検索してみました。

●主な出来事としては

売春防止法実施
一万円札登場
第1回日劇ウエスタンカーニバル
フラフープ大流行
長嶋、巨人に入団
「三丁目の夕日」の時代設定
日清即席チキンラーメン発売
東京タワー完成
スーパーカブ
スバル360
ファンタ
渡辺ジュースの素

●文化放送 ユアヒットパレード 1958年間ベスト10

エデンの東
ダイアナ
君はわが運命
真夜中のブルース(藤本さん:次はこれかな!?)
月影のなぎさ
クワイ河マーチ
河はよんでる
クレイジー・ラヴ
想い出の指輪
シャル・ウィ・ダンス

●流行歌は

おーい中村君(若原一郎)
嵐を呼ぶ男(石原裕次郎)
星は何でも知っている(平尾昌章)
夕焼けとんび(三橋美智也)
からたち日記(島倉千代子

※小学校5年の夏休みに、芝公園に昆虫採集に行ったら、大きな穴を4つ掘っていました。それから毎日、段々東京タワーが組み上がっていくのをリアルタイムで見ていました。


若原一郎「おーい中村君」が出てきて「へー!」です。これを作曲したのは、中野忠晴(1909-1970)という人ですが、戦前、昭和9年にコロンビア・リズム・ボーイズというコーラスを編成・指導し、中野さん自身がソロで「ダイナ」を唄っています。これが日本でのジャズコーラスの始まりです。

ビンクロとミルス兄弟が1931年に大ヒットさせてから3年後のことです。そんな時代に中野さんはミルス・ブラザースを聴いていたのです。同じときに「タイガー・ラッグ」、ラッグですぞ!を吹き込んでいます。

皆さんが聴けば「これがジャズかよ?」とおっしゃると思いますが、中野さんはジャズコーラスをやろうとされていたのです。更に驚くのは、ボズウェル・シスターズを真似して、コロンビア・リズム・シスターズまで世に送り出したのです。

やがて戦争が始まり、ジャズは敵国の退廃的音楽と呼ばれ中断されます。戦後のジャズコーラス、ポップスコーラスを育てたのは小島正雄さんです。

古い話ばっかで申し訳ない!

歌謡曲とジャズが混在していた様子が窺い知れます。
若原一郎が「おーい中村君」に続いて「何だい三郎君」というの
を歌っていたのを憶えています。
あまりヒットしなかったと思いますがアンサーソングというか、柳の下というか・・当時からあったんですねえ。

前出、チャリンコで昆虫採集をしていた頃
(当時の青山南町ですが)近所のお宅から聴こえてくる男性コーラスの歌声に耳をそばだてていました。
家は小島正雄さんのお宅で、コーラスは若きダークダックスでした。

当時小嶋さんはブルーコーツにいらしたのでしょうか?
後々、TBSの大学対抗バンド合戦の審査委員長として大変にお世話になる事になります。私などよりOB諸先輩との関係の方がずっと深かったと思いますが、現在も故 小島正雄さんはライトOB会の名誉会員となられています。その小嶋さんの息子さん(小島 恂さん)がOZ SONSのバリトンのご担当と言う事ですね。

小島正雄さんが亡くなられた時(1968)に追悼アルバムが作成されました。ライトを代表して高浜さんが追悼文を書いていらっしゃいますが、名誉会員のことにも触れられています。
http://www.ozsons.com/KojimaMasao/
にあります。

小島正雄さんの息子の小島 恂さんはOZ SONSの前身のグループを1991年に立ち上げています。今のメンバーの3人が練習を本格的に始めたのが1997年、台湾に赴任していた栗本が帰国して4人になったのが2001年です。じつは、まだ年若いグループなんです。

伸ちゃんは、子供時代は昆虫採集、オヤジになってからは鯛釣りですか。

セミ捕り網がタモ網に代わっただけで、何の進歩も無いという事ですね。

TBS大学対抗バンド合戦の審査委員長は、小島さんが亡くなってから番組終了の1969年まで藤井 肇さんが務められました。

・・でSBYM先輩の
>若山先生には、Ksスタートのきっかけと
>数々のアドバイスをいただいており、大恩人です。

大変興味があります。さしつかえなければ・・

SBYMが少々大袈裟に書いたのです。
随分前になりますが、カルアOB会の2次会をマヌエラでやることになり、何を考えたのかSBYMとジミーがOZ SONSをゲストに呼んだのです。ジミーがH報堂、OZの小島がD通で同業という関係。そんなことでOZ SONSがカルアの皆さんを前にして唄っちまったのです。

冒頭の歌は”Candy”でした。2小節唄ったところで、皆さんから「オーッ」とか「エーッ」と、すごい反響が返ってきました。気持ちよかったです。

自分達が学生時代にやっていたハーモニーを、目の前でいい年こえたオジサンが「パーッ」とやったのです。堪らなかったでしょう。羨ましかったでしょう。

これが、K'sスタートの切っ掛けとなりました。「僕らも練習始めます」

それから、K'sのコーラスを聴かせてもらう機会が増えました。FFやマントラが彼らのレパなのです。彼らの構成は女声1+男声3のコーラスです。これは、FFをやるにもマントラをやるにもかなり無理がかかります。音域的に力のあるボリューム感が出せません。

そこで、SBYMに「君達のコーラス編成なら、パイド・パイパースを参考するとよい」とアドバイスをしました。今では昔々のレコードがCDに復刻されて簡単に手に入りますが、彼らが学生時代にはパード・パイパースなんて聴く機会がないはずです。ぼくは子供の頃にFENでパイド・パイパース(Jo Staffordがメンバーだった)をよく聴かされたものです。心地のよいトミードーシー・サウンドです。

これからでも遅くありません。パイド・パイパース・スタイルを研究してください。絶対に合います。パイド・パーパースは新しいメンバーによって、今も続いているのです。

■K’s誕生の経緯は、若山先生の仰るとおりです。
更に付言しますと、上述の♪Candy♪が、自分もコーラスをやりたかったとの想いに、確実に火をつけました。(だって、学生時代では、歌でカルアに入ったのに、ドラマーとなっちまったからです・・・)
OB会の二次会では本当にお世話になりました。
それに、些少ながらもギャラをご用意していましたが、「いいよ、いいよ・・・ボク達はいいの・・」のお言葉で、ロハとなってしまいました。

■K’sは現在、4番だったN先輩が抜けられて、
女性×1、男性×2、の3名となってしまいました。
が、譜面は4声のままですので、なんとも片肺飛行状態です。
で・・・パイド・パイパーズの♪Candy♪にも挑戦しています。

若山先生から”せっかくやっててもあの人員構成とキーは合わないぞ。””替えた方が良いんじゃないか?”と何度と無くご指摘を受けまして結局本日まで引きずってしまいました。
変化に即対応出来ない動脈硬化的集団となっておりましたことまことに恥ずかしい限りであります。
加えてキャンディーは4人揃っていた頃の最初の取り組み曲でしたが、どういうわけだか譜面のコード進行がアヴァンギャルドで誰も理解できないままの未完成状態で突っ走ってしまったんです。
やっとのことで先生ご推薦のPP’s版に書き換えましたが、ご存知の通り今やVocal 3人体制,
PPsじゃ無くてPPMみたいなもんです。
”慶応にいたときゃあ、カルア~と呼ばれたの~”
”今ではぁ~オジサンバーンドなぁの~”

HTRは男声の一番高いパートを唄っています。リードはU子です。FFを唄うとU子には低すぎてパワーが出ません。キーを上げるとHTRが死んでしまいます。マントラを唄うと、ジャニスのパートをバリトンが唄うか、テナーが唄うかになり、いずれもしっくり来ません。だから、PPのクロスハーモニーが良かろうと思うわけです。

しかし3声では困ってしまいますね。マンモスの代わりは居ないのですか?よかったらOZのくりGをK'sに上げようか?そんなもの、いらねぇってか?ワッハッハッハ!

先生!!本当ですか?

人材は70歳くらいの方まで受け入れるかも知れませんよ。何しろ若いのは飯だけ食ったら逃げて行きますから。この際平均年齢なんて上がっても関係ありませんよ、多分ね。わ、はははぁ!!

HTRでした

飯だけ食って逃げたりはしませんが、70歳位まで
ってあたしのことなら後10年近くあるってことですね。 腰痛のことなら一くさりも二くさりもくっちゃべりますよ。  なにしろ手術が怖いもんで注射で逃げ切ってきたんですから。   

そっ!手術で完治した人は聞いた事はありません。
「DANCE PARTY」欄にも腰痛コーナーがありますが、この際どこでもいいか。私も初めはブロック注射打たれましたよ。効き目は1週間でした。

そっ!手術で完治した人は聞いた事はありません。
「DANCE PARTY」欄にも腰痛コーナーがありますが、この際どこでもいいか。私も初めはブロック注射打たれましたよ。効き目は1週間でした。

25日かけてやっとHMVから届きました。
「The Pied Pipers/DREAM 1939~1949」

正直、モダネアーズはグレン・ミラー、パイド・パイパースはトミードーシー位の知識しか無く、この際お薦めに従って聴いてみようと即注文したわけです。

感想は
「4歳の頃、近所の米兵にもらったフルーツ・カクテルの缶詰」或いは「浜茹での生タラバ」とでも言いますか、旨味と甘さがいっぱいに詰まった新鮮な味わいでありました。

アマチュア・ビッグバンドの楽隊としましては、ハーモニーの美しさもさることながら、その大きな歌心に驚かされます。とにかくブレスが長い。発声法は本職にお任せしますが、楽器の基本はロングトーンにあります。その後に奏法やアンサンブル(歌い方)があるわけですが・・

1曲目にDREAMが収録されています。
♪Dream When You're Feeling Blueまでワン・ブレスで歌っています。LHOもDREAMはレパートリーですが
♪Dream (v) When You're Feeling Blueと演っています。

同様に、グレン・ミラーのオリジナル盤を聴いてみると、その豊かな歌心、重厚なサウンドに圧倒されます。決してヤワなダンス・バンドではありません。

易しい譜面ほど、難しく奥深いモノを感じます。
勉強になるなあ。

それにしても20代のシナトラのチャーミングなこと!!


昨日でほとんどの会社が仕事納めだったせいか、各種e-mailもパッタリと来なくなりました・・・・と思ったら橋本さんからとても良いコメントが入りましたので反応します。
(何かジャングルから出て来た横井さんや小野田少尉を思い出しました。へツへツへ)

Pied Pipersいいですね。若山先生のお薦めによりK’sも今年9月にCandyを書き直して頂き再度挑戦することになりました。あのレトロなハーモニーがなんともいえません。マントラのCandyも全くPPsをパクッてます。出来れば男はぺタッと真ん中から分けたオールバックに白タキシード、女はパーマで裾をクリッとカールしたヘアでロングドレスと行きたいものですが。
これを今月のパーティーでやろうとしたのですが仕上がりが今一不安でご披露は越年することになりました。
これが別線で書いた”鉛の塊”たる所以です。

*ラスコでのロングトーンも大変難しく、苦労します。
かなり何小節も前から意識していても気がつくとブレスを忘れてロングトーンの箇所に差し掛かってしまい、酸欠状態でヒイヒイ言わなければなりません。管楽器もそうなんでしょうね。
以前、JAZZ Vocalの丸山繁男さんから一瞬にして酸素を沢山吸い込む方法を習ったのですがどうしても出来ませんでした。
だからボントロのロングトーンを参考にして自分のものにしたというシナトラは凄い!!
K’sも山にこもって合宿し、ラジオ体操から腹筋強化運動までを日課にしなければなりません。
KMPの皆さんが昔やっていたと聞いてます。

カルア系は酒浸りでとてもとても・・・・
しかし来年の課題は多いなあ(^^♪

HTRよ、あなた方は合宿でも筋トレでも何でもやって上手に歌わないといけません。OZは素人コーラス、あなた方はかつて金儲けまでしたバンドです。

年寄りの歌に負けているようでは「困ったチャン」ですよ。

先生!

最後に強烈な一発をありがとうございました。
ご期待に沿えるよう頑張ります♪

それでは良いお年を!

ロングトーンの練習といえば

日吉の頃、管楽器の連中は昼過ぎに記念館の裏にゾロゾロ集まってきて、マムシ谷に向かってロングトーンの練習をしていましたね。ドラムはそれに混じってコンクリートの床で基礎打ちです。聞きつけて詰襟の塾高生、小澤や小佐々なんかも練習しに来ていました。

歌の人達はやはりピアノがないと練習にならないんでしょうね。記念館裏では見当たりませんでした。

シナトラが呼吸法をトミー・ドーシーから教えてもらった、というのは誰かからも聞いたことがあります。しかしエンジェル・アイズではタバコを吸っていました。小道具だとはいえ、歌には影響なかったんでしうか?
シナトラだから何でもアリという事で。

話はそれますが・・
YOGAの呼吸法は歌にも効果的らしいです。
胸式、腹式、両方ありますから、どう取り入れるかは個々あると思いますが、私の友人、ビレッジシンガーズの小松久さんはYOGAを始めたら、上限GだったのがB♭まで伸びたと話していました。

■このブログ・コメントは続きますねえ。
先ほど、カミさんと渋谷に行き、タワーレコーズ〜買い出しを済ませてちょいと覗いたら、パイド、シナトラ等に話が及んでいます。

タワーでは、Alan BergmanのLyrically、そしてANITA O'DAY Live At Basie等7枚を買ってきました。
今、先ずAlan Bergmanを聴いています。
彼は(ご存知の通り)本来は作詞家です。
Alan & Marilyn Bergmanのコンビで数々の名曲を作詞しています。(先生、これは兄姉でしょうか?)

このCDではルグランとの共作である
The Windmills Of Your Mind,
The Summer Knows,
What Are You Doing The Rest Of Your Life,
How Do You Keep The Music Playingなんかを渋く、でも軽やかに歌っています。
そして我らが御大、シナトラが歌った,NICE 'N' EASY も彼らの作詞になるもので、なかなか味のある歌い方です。
さすがに作詞家のCDらしく、Lyricsは米国盤には珍しく全部記載されています。

そして、アニタのライブはかの有名な、(一度は行ってみたい)早稲田OB菅原さん経営の一関ベイシーでのレコーディング(1978年)です。これもなんだかよさそうだなあ。

■ロング・トーンといえば、だいぶ以前にコーラス・グループ、サーカスのメンバーである叶 高君と会ったとき、モンゴルの歌唱法といって、発声しつつ鼻から息を吸い続けるという技を披露してくれました。
延々発声し続けていました。
これは器楽奏者でもやりますよね?

■シナトラの60年代前半のテレビ・ショーを見ると、
ディーン・マーチンなんかと楽しそうにずっと煙を吹かしています。
それも灰をボトボト床に落としなながら・・・。
まっ、あの当時、御大はなんでもありでしょう。

ちょっとまた出かけねばなりませんので、
とりとめのないコメントになってしまいましたが、
皆様、どうかよいお年をお迎え下さい。

本年、どうも有り難うございました。

AlanとMarilynは夫婦です。
顔が見たければ、
http://www.ozsons.com/Alan&MarilynBergman.htm

をご覧下さい。

皆様、明けましておめでとうございます。
本年も、どうか宜しくお願い申し上げます。

先生、お教えいただき、有難うございます。
先生のサイトを読ませて頂きました。
しかしながら、よくまあこんなに名曲を作詞していますね。既述しましたAlan BergmanのCDに入ってました、
♪That Face♪を今、何度も聴いています。
作曲はLew Spenceとあります。
(この人は知らないなあ・・)
この曲もちょっと歌いたくなりますねえ・・。

そして、関連項目にありましたマントラの
♪A Christmas Love Song♪を聴きました。確かに音域が広くないとちょっと歌えないですね・・。

今年はK’sでも個人でも色々とチャレンジしていきたいと思います。
念願の4番も目処がたったし・・。

4人目が決まったとは目出度いです。
今年は気合が入りますね。
Lew Spenceはシナトラの”Nice 'n Easy"、"Old McDonald"なんてご存知の歌のはずです。聴けばすぐわかります。That FaceはJoe Williamsのを唄ってください。渋いのにスイングしてます。Jimmy向きかも。

その4番目とは大物シンガーなのですよ。

■先生、情報を有難うございます。
早速、♪Joe WilliamsのThat Face♪を聴いてみます。
■あっ!間違っていました。
目処がたったのは、3番候補です。
(この場合、私が4番を担当します)
その、目処がたっている3番は、(条件が色々とあるものの)かなり前向きに考えてくれています。
で、その3番候補の特徴は・・・、

①左足に重心を於いて、若干腰を曲げながら歌う癖あり。

②一曲のうちほぼ半分ぐらいは、陶酔型なのか、目を閉じながら歌う癖あり。(よって、そのときは周りの状況、つまりなにか合図を出しても・・全く見ていない可能性大)

③いついかなる場合(例え海外出張)でも、ひょっとして歌えるかもしれない!に備えて、譜面を常に携行している。

④歌える場合、自分の歌唱をMDに録音しておき、後日、人に聴かせて悦に入ってる癖がある。

⑤都内で出没する場所は、銀座~赤坂~渋谷方面が主だが、ひょっとして歌えるかもしれない、とあらば、珠に高田の馬場とか(確か)池袋、上野方面にまで及ぶ。

⑥そして、歌う曲の傾向は、ここ数年はシナトラものを中心に、(最近の)シカゴ等を主としているが、フランキー・レインのローハイドを、本来の鞭の代わりに、スリッパで机をバシバシと叩きながら歌うということを得意技としていた時期もある。
(これは、多分銀座とか地方出張の行きつけの店じゃないと出来なかっただろう・・・)

まあ、ここまで読まれればほぼ「アッ!アイツだ!」とお分かりのことと思います。

多分、その3番候補者はオイラも知っています。
先日、若山先生も「何でその候補者がメンバーで歌わないの?」と不思議がっていました。
三原嬢と候補者では約30センチの身長差があるからマイク1本で歌う時は、セッシューせねばなりませんね。

■恐らく・・イメージされている人物が3番候補者です。身長差約30センチ・・・その人物が合致していれば・・・それくらいはありますね。
一番出没している場所は、何といっても銀座方面です。一時、Sinatra@Ginzaなんてあだ名で呼ばれていました。
歌のハシゴが一番やりやすいエリアですから・・。

ところで、(スミマセン)セッシューとはなんでしょうか?お教え頂きたく。

はい、はい。わかりやしたよ。
伸ちゃん、セッシューだってさ。

ご指名により、真面目に。

大昔、ポンニチ・ハリウッド俳優第一号の早川雪舟の背丈がビーチ(どこかにもいたなあ)であったため、2ショットなどの「寄り」を撮る時にスタッフは苦労して、脚立や箱馬を使ってごまかしたらしい。
「道具を使って背丈を調節する」意味の「セッシュー」は逆輸入され、ポンニチでも撮影時の箱馬を意味する様になりました。

三原嬢とKWSM(あっ!バラしちゃった)の場合、正しくは逆セッシューというべきでしょうね。
各自、別々にマイクを使えば問題は無いんですけどね。ツッコミたかっただけです。

へ~、”接収”てのは戦後の進駐軍のやったことかと思っていました・・・・・
でも意味が掴めなかったんです。
KWSM氏も同じく悩んでいらしたでしょう。
まあ、とにかく今年のKALUA OBのK’s Coとしては生まれ変わります。

LHOさんとの競演は我々の夢なのです。

WKYM先生にも”それで好!!”と言われてみたいな。

失礼しました。”共演”であります。

ハリウッド用語にも強くなれるLHOブログ!

「戦場にかける橋」の齋藤大佐ですね。この映画は1957年製作で当時の早川雪州は68歳、日本は昭和32年…「東京だよ、おっかさん」「美徳のよろめき」「伊東に行くならハ・ト・ヤ!」…の時代で、おいらは小学校2年生ということになります。

しかし「KALUAシリーズ」のコメント数は凄いな…HTRさんの合いの手で最長不倒距離はまだまだ伸びそうですね!

水田さん

何故かLHOさんのBLOGなのにこんなに集中したコーナーになってしまい”ハシャギ過ぎ”で申し訳ありません。

昨晩は大物3番ヴォーカルの先輩とお膝元銀座の某ジャズクラブにてセッションに参加して唄って来ました。K'Sはコーラスグループなのにどうしてもソロに酔ってしまう我々なのであります。

これはJGT先輩も全く同じ傾向がありこの3人をラットパックと称しています。新K'sはこのラットパックが火を噴くみたいですよ。
一晩3ステージじゃ足りないかも♪♪

●さりげなく管理人が直してくれました。雪州が正解です。

●「東京だよ、おっかさん」を口ずさんでいると、何故かいつの間にか
「波止場だよお父つぁん」になってしまいます。両方とも船村先生だからなあ。

「波止場だよお父つぁん」 ♪・・・年はとってもメクラでも~
「買い物ブギ」 ♪・・・わしゃツンボで聴こえまへん~

今じゃ放送禁止、発売禁止の歌が結構ありますね。

●メンバーチェンジの時はすごく燃えるんですよね~。LHOも5年ほど前に経験があります。その10ヶ月後にはカルア50周年コンサート(巻頭写真)を控えていたから尚更でした。JGTキャスティング担当実行委員には心配かけましたが、何とか間に合ったですね。

同様に今年のK’sはパワー爆発でしょうね。
1年後の成果に期待しています。

■有難うございます。
セッシュー、よーく分かりました。
つまり、シークレット・シューズでも足りない場合ですね。しかしいろんな事をご存知ですねえー。
いつもながら感心します。

■3番候補は、(ほぼ)暴露されました・・・。
しかしながら、本人は最近の本コメント集を
読んでるのかしら?

Jimmy、あんなに詳しく書いたら誰でもわかります。
でも、結構結構。
ソロなんてもういいから、早くラスコを聴かせるようにして下さい。
早川雪洲は、サンズイがいります。アカデミー助演男優賞にノミネートされましたが、オスカーをもらうことは出来ませんでした。結局、日本人でオスカーをもらったのは助演女優賞のナンシー梅木だけです。

■はい、ラスコに精進します。

■ナンシー梅木で覚えていますのは、
♪ミュージカルFlower Drum Song♪の曲で、
(確か・・・)♪I'm Enjoying Been A Girl ♪邦題は
女に生まれて幸せ!だったかしら・・・。
先生、あってます?

Rodgers & Hammersteinのブロードウェイ・ミュージカルですよね。
”I Enjoy Being a Girl”です。邦題なんてあるのですか。Doris Dayが可愛く唄っています。確か、Peggy Leeもどこかで聴いた記憶ありです。ナンシー梅木のは聴いた事がありません。
珍しい歌を知っているんですネ。こんなの知っているのは大伴さんの世代だと思います。

ダンモ研的に
問「”I Enjoy Being a Girl”を使って短文を作りなさい。」

答「愛煙女医、鼻咽がある程度弱っている」

何し呻き「Sayonara~ Japanese says good-bye~」しか知りません。

 

これはダンモ研どころか・・・
広島からマヌエラに来た色っぽい愛艶女医を思い出したよ。目医者だけあって、色目を使うのヨ。
「一緒に写真とってぇ」とかぁ。
大晦日にも中田と「何年まえ?」って話題になっていた。帰ってから調べたね。「2年前で~す」

「何し呻き」ってすげぇねぇ。
そうか!”Sa~~yo na~ra~~・・なんしーっくるしーっ”呻きながら唄うんだ。なっとく。

なんか臭ってきそうですね。
確かにマヌエラは女医さんのお客さん多いですよね。
この際、女医さんだけでバンドでも組みますか。

「女医古オーケストラ」と名付けてニューオータニへ売り込みましょう。

流し目新舞踊
触診ショウ
笑気麻酔サービスタイム
野球拳お注射ごっこ

などをパッケージにすると人気が出ると思います。

マヌエラでやったら超満員にならぁ!
LHOとK'sでイッパイだ。中田が泣いて喜ぶ。

おれはやだよ。あの女医さんにどっか触られそうだもん。

昨日は金曜日だったのに客は清田一人だって。
暇なんで、電話がかかってきたよ。

橋本さん

”The New Otani Joyful Orchestra”ですか?
そんなフルバンの名前はもうすっかり忘れていました。
新年早々洒落が冴えてますね。
さすが!!座布団3枚!

♪人名漢字にも強くなれるLHOブログ!
雪舟⇒雪州⇒雪洲…の正解に導いていただき有難うございます。

♪1953年のSJ誌・女性歌手人気投票…1位=ナンシー梅木、2位=ペギー葉山、5位=江利チエミ…小生が3歳のときですね。

♪レイ・チャ-ルズの「None of us are free」は…「♪生わさび」と聞こえてしまう…。

♪正月入院したバリトンSAXが戻ってきて久しぶりに楽器の重さを実感…いまのところ腰痛発症の兆しはありませんが遺伝的にそろそろやばいかも…。

♪「女医古」=「ジョイコ」…じゃなかったんですね。そう言えば、去年のニューオータニでのゴトシのときに昔話を聞いたような…。

何!水田さん、入院してたの??
それは存ぜずに失礼しました。ではこれから仕事始めって訳ですね。
あらためて今年もシクヨロです。
小生は年初めから群れを離れてライヴハウスに通いロープの皆さんに混じって恥をかきながら芸風のチェンジに挑戦しています。
Mr.Sinatra@Ginzaの通った道を追って・・・・
これも我K'sお家存続の為の修業です。

しかしこのKALUAコーナーもとうとう60件を突破してしまいました。
若G先生やらHSMT師匠をはじめとする御大の突っ込みの素晴らしさによるものですね。
感謝感激です。

HTRさん

入院したのは楽器だよ。紛らわしい書き方で、すみません。暮れから年明けはメンテ屋さんが繁盛します。

●連休だというのに、みなさん真面目に自宅待機してますね。
風が強くて寒いからね~。

●そういえば先日、浅草HUBで、ジョイフル・オーケストラで7年間
リード・ラッパを吹いていたという、杉村 彰さんという方に遭遇しましたが、そのプレイはさすがでありました。

●53年の3位と4位は何故抜けているのでしょうか?
雪村いづみ、水島早苗、マーサ三宅、スリー・グレイセス・・あたりかな?後藤芳子、小割まさえはもっと後だろうしなあ。

♪1953年の女性人気歌手3位=新倉美子さん、4位=富持登美子さんでした…(存じ上げないお名前だったので)…雪村いずみ、水島早苗、後藤芳子、小割まさ江…のお名前は入っていませんでした。(ちなみに1953年の人気テナー奏者9位が高濱哲郎さん61票…)

♪これが1956年版になるとズラリと勢ぞろいします。1位=江利チエミ、2位=ナンシー梅木、3位=丸山清子、4位=ペギー葉山、5位=星野みよ子、6位=小割まさ江、7位=三宅光子、8位=雪村いずみ、9位=後藤芳子、10位=鈴木順子…15位=水島早苗…グループ部門にスリーグレーセスの名前はなくて、1961年の5位に入っていました。

資料:SJ復刻版「モダン・ジャズ黄金時代」

なるほど~
富持登美子という方は知りませんでした。

高濱会長9位ですか!カッコよかったろうなあ~ 

ドラムのランキングも興味あります。

♪1951年版もありましたので整理して…

《1951年》
★バンド:1位=ゲイ・スターズ(多忠修)、2位=ブルー・コーツ(長尾正士)、3位=スター・ダスターズ(渡辺弘)、4位=デキシー・ランダース(後藤博)、5位=プレミア・キングス(谷口安彦)
★女性歌手:1位=ナンシー梅木、2位=加藤礼子、3位=水島早苗、4位=富樫貞子、5位=ベティ・稻田
★ドラム:1位=ジョージ川口、2位=清水閏、3位=村田威次、4位=田中和男、5位=堺正俊

《1953年》
★バンド:1位=ブルー・コーツ、2位=ゲイ・スターズ、3位=コロニアル楽団、4位=スター・ダスターズ、5位=エディ岩田楽団
★女性歌手:1位=ナンシー梅木、2位=ペギー葉山、3位=新倉美子、4位=富持登美子、5位=江利チエミ
★ドラム:1位=ジョージ川口、2位=フランキー堺、3位=南広、4位=白木秀雄、5位=エディ岩田

《1957年》
★ビッグバンド:1位=シャープス&フラッツ、2位=ブルー・コーツ、3位=スター・ダスターズ、4位=NHKオール・スターズ、5位=東京キューバン・ボーイズ
★女性歌手:1位=江利チエミ、2位=ナンシー梅木、3位=丸山清子、4位=ペギー葉山、5位=星野みよ子
★歌グループ:1位=ダーク・ダックス、2位=リリオ・リズム・コーラス、3位=ブライト・リズム、4位=ブルー・ノート、5位=服部シスターズ
★ドラム:1位=ジョージ川口、2位=ジミー竹内、3位=白木秀雄、4位=南広、5位=原田寛治

《1961年》
★ビッグバンド:1位=シャープス&フラッツ、2位=ミュージック・メイカーズ、3位=ニュー・ハード、4位=ブルー・コーツ、5位=東京キューバン・ボーイズ
★女性歌手:1位=三宅光子、2位=小割まさ江、3位=北川寿美、4位=江利チエミ、5位=丸山清子
★歌グループ:1位=リリオ・リズム・エアーズ、2位=デューク・エイセス、3位=ダーク・ダックス、4位=ザ・ピーナッツ、5位=スリー・グレイセス
★ドラム:1位=白木秀雄、2位=ジョージ川口、3位=猪俣猛、4位=チコ菊地、5位=富樫雅彦

…以上です。本日は歴史のお勉強でした。寒そうですが、これから飲みに行きます!

先ほど他流試合から戻りました。
今晩はタバタヨシオスタイルでギターを持って歌に挑みましたが敢え無く失敗。気が散って間違い連発。しかし周りは凄腕のプロがゴロゴロいますので
何とか音は途切れず3曲ほどやってきました。

これで人気投票なんてやられたら朝刊にも夕刊にも出てこないだろうなあ!

伊藤もとみちとりリオリズムエアーズって洒落てましたよね。懐かしいなあ。学生時代に六本木で彼らのトラポ車を見た記憶が有ります。

●ナンシー、ベギー、テディー、ジョージ、ジミー、エディー、チコ・・・
日系ワイハ二世みたいでいいですね~
堺正俊⇒フランキー堺、三宅光子⇒マーサ三宅
途中からハーフになった人もいますね。

●水田資料の中で、実演を見てシビレたドラマーは
【清水閏】
シェリー・マンを凌ぐブラシ・ワーク。周りをよく聴いて、決して邪魔をしないプレイ。オールバックにムスタッシュ、ダンディーなドラマーでした。
【フランキー堺】
ジーン・クルーパーに迫るスイング・スタイルのショウアップ・ドラマー。俳優としてだけでなく、ミュージシャンとしても素晴らしかった。
【白木秀雄】
ファンキー・ジャズ全盛時代の日本を代表するファンキーなドラマー。芸大打楽器科卒でロールなどはブレイキーより緻密。深みのあるシンバル・レガート。ライトが渋谷オスカーに出演していた時、白木さんが来店し、私のセットで2曲叩いてくれました。死に方までファンキーだったなあ。

●服部シスターズって何じゃろ?と思って検索しました。服部良一作品復刻盤にクレジットは登場しますが、その実態は掴めませんでした。
※検索中に瀬川先生のこんな記事を見つけました。
http://www.asahi-net.or.jp/~mv5t-kmr/recocore.html

瀬川さんの記事を読みました。

”昭和2年:法政大学生中心のラッカンサン・ジャズ・バンド”ていうのがご機嫌ですね。
うちのJGTさんなんかがメンバーにいそうです。

あ、早とちりでした。

ラッカンサンはLuck and Sun(幸福と太陽)と書いてありました。

”落下傘ジャズバンド”かと思ったもので・・・・

落下傘のヒモががらんで開きませんでしたね。
そういえば、80年代に「パラシュート」というスタジオ・セッション・グループがありましたっけ。

リリオ・リズムエアーズのスリッパ芸はKWSM@GINZAに受け継がれている訳ですね。お座敷のみですか?それとも仕込みで持参ですかね?

確かKWSMさんが通う銀座のカラオケバーに
ローハイド用の”置きスリッパ”がありましたね♪♪

■まだ、古い話やってるね。世にも珍しいブログです。

■白木秀雄の本名は「柏倉秀康という欲張った名前」と指揮者の岩城宏之が日経新聞に書いていました。芸大の打楽器科に同級生で入学したんだと。入学してすぐにブルーコーツに引っこ抜かれ、売れっ子で半年で退学しました。ジャズ以外の仕事は一切やらず、最後は謎の自殺?を選び、アパートで死後2週間して発見されたのだそうです。

■シミキンと言うと2人思い出します。一人は清水金一という喜劇俳優。昭和20年代に「シミ金の××王」というシリーズの映画がありました。親父に「競輪王」に連れて行かれました。昭和25年、3年生の時です。

■もう一人が清水 閏さんです。昔、横浜で「dr清水、pf袴田、bs横山(涼一)、vo高岡けい子(奥方)のライブ」に行ったら、「1曲唄え」といわれ唄ったことがありました。仲良くしてくれました。晩年は「もう叩けないよ」と言いながら片手に杖を突いて、奥さんがもう一方の手をつないで外出していましたが、5年前に亡くなりました。優しい人でした。

■初期のテレビで、「フランキー堺とシティースリッカーズ」というコミックバンドがよく出ていましたが、スパイク・ジョーンズのコミックバンドと同じ名前を使っていました。クレイジーの植木と谷はここの出身です。音楽でふざけるのには、生半可な力では出来ないのだそうです。その通りだと思います。

■♪落下傘ジャズバンド♪なんかに、直ぐに反応しちゃうんです。
“パレンバンの空の神兵”なんて・・。
先生!戦前に、これをテーマにした軍歌はありませんでしたっけ?
■古い話領域は、HSMTさんと先生の独壇場ですね・・。白木秀雄、と聞くと無論ジャズ・ドラマーを連想しましたが、(確か)水谷良重と付き合っていたとか・・・も連想します。アレッ?水谷八重子でしたっけ?

●古めの話題ばかりで恐縮ですが、故人の逸話、伝説が平和で良いです。本人からクレームは来ませんから(笑)

●オスカーに白木さんが来店した時は68~69年頃です。
「あっそう!ユーたち大野の後輩?」といった感じで機嫌よく叩かれていましたが、その時既に手は震え、譜面は読めず、顔には脂汗、といった状態でした。
亡くなったのが72年。発見された時、化粧マニキュアをして女物の長襦袢で死後2週間ですから、誰だか判らなかったという話で・・
DRUGは怖い。
(JGTさんへ:パイオツがカイデなナオンが好き、という理由で良重=二代目八重子と結婚するも、まもなく離婚しました。これまたファンキー)

●ライト32年卒DR(故)加瀬繁先輩がシティースリッカーズでドラムを叩いていた時期があったそうです。生前、加瀬さんがオーナーをしていた池袋「やきとり・いん」で、何故ドラマーのフランキーさんが他のドラマーを必要としていたのか、を訊ねた事がありました。
「本当に訊きたい?」と言って約1時間にわたって詳細を話してくれました。詳しすぎて殆ど忘れてしまいましたが、スパイク・ジョーンズみたいな冗談音楽をやるには、フランキーさんはフロントで芸をしなければならなかった、それゆえ別のドラマーが必用だった、と言う事でした。

●>音楽でふざけるのには、生半可な力では出来ないのだそうです。
>その通りだと思います。

確かに!チンドン屋やサーカス・ジンタなんかは哀しいだけですから。

クレイジーキャッツが可笑しいのは、実力のある芸人、脚本、作編曲家、ミュージシャンが本気で立ち向かったからですね。音楽面では萩原哲晶、宮川泰さんが”真面目に”冗談音楽に取り組んだ成果で、「シャボン玉」「ゲバゲバ」などは、当時バリバリのニューハードが
“真面目に”演奏したから冗談音楽として成立しているんだと思います。

■もう一つ忘れていましたが、その件の3番候補者の東京でのスリッパ使用可能店は、既述のとおり銀座の某カウンター・スナックですが、
そこで、♪パシッ!パシッ!♪をよく見かけました。
多分HTRの述べたとおり、リクエストしていた♪ローハイド♪がかかる直前、ママが小道具を出してた、と記憶しています。
で、その3番候補者はやおら立ち上がって歌い始め、そして上から思い切りスリッパでテーブルを叩きつけるのです。
で、ある時、歌い終わってその3番候補者がイレトに行っている間、ママが私に小声でにこぼすのです。
「・・・あのねえ、ホントはさあ・・スリッパで叩いてほしくないのね・・・だって見てよ、こんなに剥げちゃってるんだもん・・・でもさあ・・・あんなに楽しそうにやっているし、それにさあ、上客だもんね・・マッ!いいかと思ってさあ」と。
これが実情です。
でも最近はシナトラ系にドンドンシフトしていますので、ママもチョー安心していると思います。

香り松茸、味しめじ、椎茸は焼いて喰いたい、みたいな店でしょ

■そうです・・。Mushroomとも言いますが。
で、その3番候補者はたまに、(フツーは8時頃開店なのを)6時頃無理矢理店を開けさせて、一人カウンターでメシを食い(このメシもママに無理矢理作らせたもの)、そして客のいない間に一人でズーッと♪カラオケ♪三昧。そして客が来るとさっと引き上げる。まっ、綺麗な遊びともいえますが・・。

■白木さんの話は壮絶ですね。72年ですか、亡くなったのは。

期末試験の問題を作っていたら、また、こんな書き込みが・・・
「見よ、落下傘、見よ、落下傘・・・」っていうの、JGTが知っているとは驚きです。戦前派の人しか知らないと思っていたのに。妙に明るい軍歌です。戦争が始まって間もない頃に、聴かされました。
「あーあー、あの顔で~、あの声で~」とか
「若き血潮の予科練の~」とか
「勝ってくるぞと勇ましく~」とか
重苦しい短調の歌の中で、陽気な長調の歌です。

まあ、驚いたブロ愚ですこと。

■せっかく続いているので、コメントします。
母方の祖父の家で、幼稚園の頃こんなのも聴かされていました。
♪エンジンの音~轟々と~、隼は征く~
雲の上~♪
そうです・・・「加藤隼戦闘隊」です。

あとこんなのも・・・。
♪朝だ夜明けだ~潮の息吹~~~(略)~
月月火水木金金~♪

で、軍歌ばかりかと思えば・・・こんなのも。
♪East Is east and west is west~(略)~
Buttons & Bows~♪

それと、♪When I go to sleep~(余りよく覚えてませんが・・)~Linda is mine♪
この♪Linda♪という曲は、途中、男女のべシャリの掛け合いがあって、凄くチャーミングに聴こえたのを記憶しています。

■先生の場合、洋楽との初めての出会いは
どのようなシーンだったのでしょうか?

JGT


Jimmyは凄いものを聴かされていたのですネ。
ぼくは戦争を知っていますからいろいろ聴かされました。

ところで、洋楽と言ってもポピュラーとの出会いですが、終戦直後にソウルにあった我が家は進駐軍に接収されました。そして、2人の将校がホームステイに来ました。大尉と中尉でした。彼らは2階の2部屋に住みました。

夕方にベースからうちに帰ってきます。そうすると4歳だったわかGは大尉の膝の上でした。まず、英語を教えられました。それから、電蓄があったのでベースから何枚かレコード(当然SP盤)を持ってきて聴かせてくれました。ちんぷんかんぷんですが、気持ちよかったです。

昭和21年になってから、東京に引き揚げてきましたが、後から考えるとビングクロスビーとかダイナショアだったような気がします。”East is east and ・・・”は耳から聴いたまま唄っていました。
「一線シートゥウェッ訓さんさのあーらーめえにっちょー」てな感じです。おかしい?

つづき

最後は「・・・なーもー友ぜん、罰全坊ー」てなわけ。
へんなもの憶えています。

あの~、そこまでルイフになると合いの手も入れられませんが、
僕が子供の頃覚えているのは柳沢真一さんがラジオで流していた番組です、それからロイジェームズのもありました。”ピアノ、中村八大!ドラム、白木秀雄、テナーサックス松本英彦~”なんて調子で流れていました。何故かセレソローサがテーマ曲だったような気がします。
最近の話で恐縮ですが・・・・・

私の幼稚園で教わった季節物、ジングルベルです。

♪じんぐるべる じんぐるべる じんぐるおーとべる
おーはさん えっんふーらいへん わんほすおーふせー

姪っ子の長男(3歳)が先日保育園でジングルベル教わりました(これは日本語)。
♪じんぶんべーん じんぶんべーん すずとーめめー

よく考えたらその類のことをK’sのラスコでは今でもやってるかもしれません。かなり歌詞を適当に流していることが多いです。隣の人にまかせっきり♪♪
現役の時やっていたTicket to rideなんか
”しんかんごなびサア~ド”ってバンマスのミッケンさんが歌っていたような気がします。
彼はその後何の因果かずっとアメリカ在住になりましたけど。

中等部のTさんと言う英語の先生は
PEOPLEをピューピルと発音していました。

初めてワイハに行ったら全然通じなかったという話でした。そりゃそうだわ。

一年に一回しかやらない"The Christmas Song"の歌詞に”Tiny tots with their eyes all aglow~"という部分があるのですが、それを”Tiny tits "とやってしまうとジンガイに馬鹿受けします。
”ちっちゃな幼児が~”というのを”さいちいのパイオツが~”となってしまうんです。 

そっか~
オイラにはちっとも違いがわかりまへんなー
これもTさんに教わったせいやろか?

KOという学校には「いいせんせ」と「だめなせんせ」がいました。
高校の世界史は「エホバの神」しか教えてもらいませんでした。毎時間「エホバが・・・」って言うんです。私の世界史=エホバの神。どんなもんだい!

HSMT先輩

今日あたりから大阪のSweetieさんのブログにまで進出して結構忙しくなってきました。
カルアコーナーももはや100件達成は確実です。
その後は”組”の将来を考え西に侵略しましょうか?
”バンマスのひらめき”活性化委員会みたいに。

若山先生の時代はイースト・レイクという英語の先生はいませんでしたか?東と湖という金の漢字のカフス・ボタンをはめた先生です。

あと、名前は失念しましたが、国語の先生でジャズ・ボーカルが好きで小割まさえ、後藤芳子、新倉美子とか色んな事を喋っていた先生もいました。さすがに歌いませんでしたが・・

僕らの時代に何人か亡くなりました。そして新しい先生が交代したりしました。聞いたことが無いので、僕らの出た後と思います。

大体、塾を卒業したての先生は、ひどい人が多かったです。昔は教育大とかで先生になるべくして先生になった人が多かったのですが、そうでない人が増えた時期があります。

あまり出来ないので、ある数学の先生に難しい問題を出して「いじめ」をしたことがあります。泣いて教員室に逃げ帰りました。間もなくベテラン教師が飛んできました。「お前らがいじめたんだろ~!」

■なんだか、一夜で急展開してますねぇ・・。

■先生はソウルにお住まいでしたか。
引き揚げは大変でしたでしょうか・・。

■私の場合、やはり耳で覚えたのでしょうが、
今では、♪ちゃらら~ちゃらら~ばってんぼー♪
しか記憶に残っていません。

■なんか、アチラ(バンマスのひらめき)も
凄い展開になってるなあ・・・。

そう言う事情があったんですね。
なんせ1学年18クラスですから先生の割り振りが大変な時もあったとおもいます。

ちなみにLHO塾高出身者は
HRYM:TB70年 現在ドバイ 工学部⇒大学院(先生のモロ後輩)
OZW:AS72年 ご存知、電報、飛脚のみ連絡可 団員
YMUC:TP81年 勤務地仙台より練習に参加

3名とも高校時代はワグネル・オーケストラ在団でありました。

Jimmyのリクエストです。何処にも書いた事がない話をご披露します。62年前のことを明瞭に憶えています。
我が家の朝鮮からの引き揚げ話は変わっています。
●「若山さん、汚い格好は駄目です」とは大尉の言葉。欧米人はまず身なりを見ます。
●いい身なりをしている人には、それなりの対応をします。
●お袋は毛皮のコートでした。みな、よそ行きでめかしこんで引き揚げ!
●京城駅、米軍のトラックで引き揚げ列車に横付け。大尉や中尉がをはじめアメリカの兵隊が送ってくれた。
●寒い時期だったので「コタツ」持ち込み。
●布団毛布類も沢山運んでくれました。
●引き揚げ列車は、客車はありません窓のない貨車です。
●1両だけはこれで暖房完備となりました。
●明かりもあって何でも見えます。
●この車両に乗り合わせた人は助かったの一言だったと思います。
●それで、京城から釜山まで。
●釜山港で「興安丸」に乗り込み。
●戦前、戦中の関釜連絡船です。
●埠頭には国連軍の兵士が沢山いました。
●ベレー帽をかぶった豪州兵に話しかけました。
●「こんなチビが英語を喋る!」ってんで、大騒ぎに。
●兵隊がみんなうちの家族のところに集まってしまった。そして、お袋の荷物は持ってくれる。ガムなんかお菓子もくれる。
●英語を喋ったチビは抱っこして乗船。
●しかし、引揚者は船底に入れられるのだ。
●この船に1等船室があることをオヤジは知っている。
●ボーイにチップを切ると、親子3人は畳の敷いてある広い部屋、窓もあって外が見えるのだ。
●地獄の沙汰も○次第なんです。
●甲板に出ると、この船の後には鱶(ふか)がみんな着いて来るのが見える。
●船から出た残飯を食べに来るのだ。
●上陸したのは仙崎という漁港、下関ではない。
●民宿のような農家のような家で風呂に入れてもらう。
●「ここは内地?」と聞いた。全部焼けたと聞いていたのに、何も焼けていない。
●こんな田舎は空襲も無かったのだ。
●翌日は汽車でがったんこがったんこ。
●一旦、若山の郷里である名古屋の親戚などの所に寄って何日か休んで東京に移動した。
●恵比寿の駅から馬の引く車に乗った記憶がある。
●歩いたって10分もかからないところなのに。
●渋谷の駅周辺は焼け跡だらけ。古い東横のビルは残っている。
●氷川町の家は焼けずに、おばあちゃんが疎開もせずに頑張っていた。東京空襲でもこの一角だけ焼け残ったのです。
●こうやって極めてめずらしい引き揚げ体験をしたのです。満5歳になったばかりでした。
●もう2度としたくありません。

■引揚げという言葉からは、舞鶴港で待つ「岸壁の母」と復員者、引揚者のイメージが先ずありますが、
先生の場合は随分と違いますね。
この引揚げパターンはかなり異色といっていいんでしょうね・・。
いずれにせよ、克明に記憶を辿っていただきまして
有難うございます。
拝読しまして、フ~ン!と唸ってしまいました。

すごい体験をされたんですね。

これは小説の題材になるんじゃないでしょうか。
脚本がよければ映画の方が良いかもしれません。
多方面にロケしなければならないし、引き上げ船もチャターしなければならないから制作費はかなりかかりそうですが・・

JGTさん、となるとキャストは誰が良いでしょうか?

まあ、確かにドラマです。引き揚げ船で甲板船室で悠々と玄界灘を渡るなんて引っ叩かれそうです。引揚者の船倉は暑くて臭くて、階段を下りてゆくだけで息がつまるような様相でした。

仙崎からの列車は山陽本線に回ったと思いますが、これは飲まず食わずの地獄の4等車でした。昔のフイルムで見たとおり、窓からでも乗り込むといった状況でした。おまけに、連結のところの幌が破れていて雪が降り込んできました。

■オットットッ・・・難題を振られました。
では、先生の映画ですから、音楽を多用することとします。
ですから、主な出演者は歌ができないと・・・。

父親:○○○○

母親:○○○○

5歳の坊や:オーディション?

気丈なおばあちゃん:○○○○

大尉:ハリー・コニックJr.

中尉:マイケル・ブーブレ

さて、○○の箇所を皆さんで、アイディア出しをしてください。

祝!!100コメント!

■おっと・・・先生が祝100回!で、私の場合は
祝101回!でした。

あれ!大阪のブログに書いているうちに100件目を持っていかれた。
おめでとうございま~す。

よし、配役
父;ジェリー伊藤(またはテリー伊藤)
母;朝丘雪路
おばあちゃま;飯田蝶子

あ、死んでる人もいました。

初めのシーンは先生が、マヌエラで昔の歌を歌っていて、
ふと昔を回想するところから入るから
先生役は2人役者が必用ですね~

ご両親とも若い頃の話だから、
役者は若手がいいんじゃないですかね?

実は私も出演したいんですよ。
引き上げ船でフカに撒き餌する釣り人の役。
ダメ?

そうですね。キャスティングは大河ドラマみたいに
何人も必要ですよね。
終戦時
父親:キム拓
母親:観月ありさ
気丈なおばあちゃま:M正子

HSMTさんの釣り人はヒッチコックみたいじゃあ~りませんか。

はい、HTRはこれからM正子さん発見取材で吉祥寺に行ってきま~す。新宿PIに引き続き空振りになるかも。

音楽は、皆さん意見が分かれるところでしょうが・・

第一候補:デイブ・グルーシン
第二候補:クインシー・ジョーンズ
日本人ならば:佐藤允彦

なんていかがでしょう?
どなたも大河ドラマ風タイトル・バックのフル・オーケストレーションから小編成までOK。音楽の時代考証もバッチリできる職人です。ハンコックでもいいですけど。

最初のマヌエラのシーンはピアノ・トリオで始まり、回想シーンに移ると同じ曲のDIXIEスタイルが蓄音機のSPレコードから聴こえてきちゃったりして・・

今帰りました。Mission Impossible!!

(一見怖表 系)旦那はいましたが奥様は来ていませんでした。
しかし彼はその風貌とは違い非常に礼儀正しい人でした。エレべのテクニックなんか最高です。
~にしてもなかなか逢えないなあ~

帰ってみたらサウンドトラックの話題にまで発展しているのですね。
中断して申し訳ありません・・・・・

うちも今帰りました。
Laura Fygiなんて16年ぶりに見に行って、
9時から神楽坂でOZが集まっていました。

おったまげたことになっておるワイ。
ここは恐ろしいぶろくだねぇ。

■音楽監督はクインシーがいいなあ・・。

■私も出演したいなあ。
京城にある若山家の近所に住む、一人暮らしの男。
実体は陸軍の特務機関。
若山坊やになつかれている。
とある日・・
坊や「おじちゃん!遊びに来たよ!あがってもいい?」
男「おお・・ぼう!あがっていいよ。ラムネを飲むかい?」
坊や「ラムネ、大好きだよ・・どうも有難う。うわ〜冷たくておいちい」
男「そうだ、ぼうは音楽が好きなんだよね?なにか歌えるかい?」
坊や「ウン、こんなの知ってるよ。♪〜ジョシュウ、ジョシュウとじんばはすすむ、ジョシュウいよいか、すみよいかぁ〜♪」
男「ほほほ〜よく知っているねぇ。ぼう、こっちへおいで蓄音機でこれを聴かせてやろう」
♪〜Candy〜I Call My Sugar Candy〜〜♪
坊や「???!!!」
男「これはねぇ、今日本が戦争をしている亜米利加のダイナ・ショアというお姉さんが歌ってるキャンディという曲だよ・・どうだ、アメを舐めているように美味しく聴こえるだろう・・でもね、おじちゃんが亜米利加の音楽を聴かせてくれた、なんて誰にも言っちゃあダメだよ・・分かったかい?」
坊や「うん!ボクもうおぼえちゃったぁ・・♪キャンディ〜アイコーマイシガー〜キャンディ〜♪」
男「すごいじゃないか、ぼうは耳がいいねえ・・大きくなったこりゃあ米語の歌が上手くなるぞ〜アッハッハハハ〜」

・・なんて、役ね。

伸ちゃん、このおじさん脚本まで書いてるよ。

今から向かいます。

ラムネじゃなくてクエルボのソーダ割りを飲みに。

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