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2007年12月17日 (月)

DANCE PARTY

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OZ SONSの清田兄から「LHOのブログ見ているよ。明るくていいね。」との激励をいただき、喜び勇んで更新いたします。そりゃあLIGHT HOUSE(灯台)だから明るいに決まっています。メンバーの頭髪も益々“磨き”がかかってきました。相変わらずの回顧趣味で退屈だとは思いますが、お付き合い下さい。

再び約40年前、小生ライト現役時代の頃の話です。年間約100回のシゴトのうち約30回は夏と春の演奏旅行(ビータ)で、あとは年1回の定期演奏会(リサイタル)、三田祭、披露宴や企業パーティー。それ以外は殆どダンス・パーティー(ダンパ)への出演ですから年間50~60回くらいのダンパをこなしていた事になります。

巷ではエレキ・ブームが一段落して、GS、フォーク・ブームがやってきた頃のお話です。既に赤坂MUGENは存在していましたが、DISCOと言う言葉はまだ無く、ゴーゴークラブと呼ばれていました。

ジャズで言うと、コルトレーンのインパルス・レーベル、マイルス・クインテット(ウエイン・ショーター、ハービー・ハンコック、ロン・カーター、トニー・ウィリアムス)カウント・ベイシーはヴァーヴからリプリーズへ移籍し、クインシーをアレンジャーに新譜「This Time by Basie」を発売、といった時代です。

ダンパの主催者は、慶応や他大学(女子大を含む)の体育会、文連団体、同好会、ゼミ等で、各団体の活動資金を補填するのが主な目的です。パーティー券(パー券)は1枚300円~500円ぐらいで売られていました。JAZZ喫茶のコーヒーが300円くらいでしたから、パー券自体は結構安かった気がします。会場の中でコーラやビールなどをCODで買うスタイルです。

ダンパは、今で言うと巨大な合コンの役割を果していました。切れ目のないダンス音楽、暗めな場内照明の効果で、最後のチークタイムまでに意中の相手を探すという、実に平和で他愛も無いナンパの場だったのです。

よく行われていた会場は、サンケイ国際ホール、目黒パークレーン、三福会館、精養軒、赤坂プリンス、東京プリンス、ニューオータニ、オークラ、帝国、ETC。上記以外にコンボ編成ではシャトウ三田のパーティー会場にもよく出演していました。あと何処か忘れてないかな?

通常、18:00~21:00の3時間。2バンドで30分毎に交替で3ステージづつ演奏します。バンド・チェンジの時はチェンジ・ワルツを演奏しながら交替します。ピアノとドラム・セットは2バンドで一つを使い廻しますから、音が切れないように交替するのにも技が必要でした。

2バンドは1つがフルバンドだと、もう一つのバンド(相バン)は少人数編成で傾向の違うバンドになります。カルア、バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ、大橋節夫とハニー・アイランダース、ランチャーズ、ザ・サベージ、パープル・シャドウズといった方々と頻繁に相バンになりました。

中には豪華に一流プロのフルバンドが相バンの時もありました。宮間利之とニューハード、武藤敏文とニューシャープ、ダン池田とアフロキューバン(ニューブリードの前身)などが記憶に残っています。特にニューハードが相バンになり、私の師匠バタヤン(田畑貞一さん)のDRセットに座った時は完全に舞い上がって、何を叩いたのか全く記憶にありませんでした。とにかく、忙しい忙しいと言いながらも、楽しく「学隊時代」を過しましたが、LHOで言うと水田BS、辻PFの頃までは、この様な感じではなかったかと思います。やがてDISCO ブームが来て、ダンパの時代は終了をむかえる事になります。

この記事を書きながら、当時のダンパを再現する企画を考えてみたくなってきました。

(LHO橋本)

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コメント

また来てしまったら、ダンパの話題になっていました。僕らの友達のハワイアンバンドに頼まれて相バンドで学生時代のコーラス4人で出たことが1回だけあります。産経ホールでした。めちゃくちゃでした。

何せ、初めてのことで困りました。踊るには適さない曲がごろごろありました。途中でrit.やフェルマータがあるのです。全部、In Tempoでやったものです。歌いにくいっちゃありゃしない。懲り懲りして2度とやりませんでした。

田畑さんが師匠なんですか?ご無沙汰してますが、奥さんの「おさよ」は高校時代からの1年先輩でうちによく遊びに来ました。

飯倉のホーキパで田畑さんの太鼓でオージーサンズが歌ったことがあります。世の中、狭いもんですね。

■ダンパに、ミラー・ボールは必需品でした。
特に、チーク・タイムにはとても有効でした。
ステージから、合コン・シーンを見ると、
以外とよく識別できたものです。 
ブラシを♪シャー、シャー♪やりながら、
「あっ、あそこはスーキしてやがる・・」なんて、
よくひとり呟いていました。

■当時の学生バンドで、ダンスが上手いって人は、
寡聞にして知りません。
ですから、私の場合、ダンスをせねばならない場合は、いまだにチークもどきしかできません。
それも、足と腰を左右に動かし、
時々耳にフーッと息を吹きかけるだけです。

■イーボ時代は、レギュラーが演奏中は絶対に
フロアには出られませんでした。
万が一ダンスしようものなら、
「お前、一体ナニ考えてんだ!レギュラーがゴトシ中に、遊びほうけてんじゃない!ステージ脇で、ちゃんとレギュラーの演奏を聴いてろ!」なんて、一喝されていました。

(ただ、このブログの読者であるTKは、よくジョノカを連れてきて暗い中を、抱え込むようにチークを踊っていたような記憶がありますが・・・本人は目立たぬようにと気を使っているつもりが、なにせ背が高いので、チョー目立っていました)


うーん、なつかしいねぇ。
よく行きましたね私も。
私のダンパデビューはデキシーの連中とスイングバンド組んでシャトウ三田でした。まだあの建物あるのかなぁ。実は、大学入学後初めてデートした女性は、シャトー三田でお知り合いになったひと。

本格的にお付き合いした女性は、目黒パークレーンがスタート。そののち見事に振られましたが。

そして、私のかみさんは赤プリで開かれたKMP出演の慶應ゴルフ部のダンパがきっかけでした。

こうやってみると、私の青春はダンパとともにという感じですね。


話変わって、KMPにきた仕事のとき、チェンジのコンボバンドをKMPのピックアップメンバー何度かでやったこともありました。コンボの仕事ではちゃんとギャラもらいましたからけっこう美味しい仕事でした。今考えると18:00~21:00まで、ずっと叩きっぱなしって、若かったからできたんだなぁとつくづく思います。トイレの5分くらい抜けるだけで3時間休み無し!!今はとってもできないぁ。

ダンパの思いでは限りなくあります。
C年D年のときは”ああ、早くレギュラーになりたい!”と当然歌と演奏をする側にあこがれていました。
しかし、いざレギュラーになってみると今度は踊っている人たちが羨ましくなりました。
あのおびただしい練習時間とシゴトに費やした日数は我々バンドマンには決して傍で思われるほど良い思いはさせてくれないということですね。
デートなんかする時間無いんだもの・・・・・
それに、お客さんはよくカルアの演奏で踊ってくれたものですよね。踊りにくいバンドだったと思いますよ。生意気で自己中心的なメニューばかりやっていましたから。
踊れぬ者の怨念がそこにあったかもしれません。

●当時の田畑さんは大変な売れっ子で、ニューハード以外にもショクナイでスケジュール帳は真っ黒でした。2台のドラムセットを2人のボーヤ、2台のトランポ車でパラに移動させていました。クッション時間無しにブッキングされていたから、それでも大変だったと思います。
本人は当時流行りのアメ車(シボレー・コルベア)で移動するのですが、何であれほど運転が下手ですかね~?船に酔わない私が必ず
モチキルイワになりましたから。

サウス・シー・フラワーズ⇒大橋節夫のお沙代さんはその頃既に田畑さんと結婚されていました。私達の卒業リサイタル(郵便貯金ホール=メルパルク・ホール)のステージでお花を頂戴しました。

毎回ホオキパにLHOのポスターを貼らせていただいています。ホオキパだとつい深酒をしてしまい、相変わらずバタヤンの前ではうまく叩けません。

●ジミーさんの言う通りステージからは暗い場内でも結構よく見えました。中には、同級生でわざとステージの側に来て、これ見よがしにチークを踊っているのもいたからタチが悪い。

●うち等の中でドリオ、カケシを一番頻繁にやっていたのはHRYMですが、さすがにsweetieさんの書き込みにはかなわないでしょう。
ダンパのドンバ・メリットを最大限に享受しましたね~。

sweetieさんプロデュース「LHO秋の大阪ビータ」もほぼ決定との事で、首を長くして楽しみにしています。

●確かに「マシュケナダ」や「アクエリアス」なんかはちょっと踊りにくいですかね?私も休憩時間は楽屋でお休みの口で、踊りはシロートですからエラそうな事はいえませんが・・

カルアは見ても楽しいから問題ありませんでしたよ。カルアやランチャーズの時なんか、客は踊るというよりステージの側に集まって見てましたよね。そしてライトの番になるとバーッと散って踊り始める・・・・・
「いいんだ、いいんだ。どうせオレ達はドンバだからよー!」
というドンバ根性はその頃から培われたものだと思います。

何処かのステージで、当時のカルア最大のスター女帝MMさんがセルメンのレザを歌っていた時、相バンだったライトのHSMTさんやらHRYMさん達が
”ダヤラダヤサバ ○サ○とリーヤ、ダヤラダヤサバ朝マデリーヤ””オーアベマリーヤ”と大声で口ずさんでいたのを突然思い出しました。

カルアは「オッパッピー!」の40年前に
「オパッオパッオパッ」とやっていたのだからスゴイ!!

そういえば、田畑さんの家に、橋本御大とTPの斉藤、そしてあの真文さんと遊びに行ったことありましたね!奥様にもお目にかかりました。確か当時は久品仏にお住まいだったと思いますが。

田畑さんとは、ホンの短いお付き合いでしたから、もう35年くらいお目にかかってません。赤坂の日本コロンビアのスタジオにNewHerd演奏の”Perspective”というLPの収録を見学させて貰ったのも懐かしい思い出です。お元気にされているとのこと、ぜひ一度お会いしたいものです。

当時、田畑さんは我々後輩のことを「ユー」とか「ユーたち」と呼んでいましたね。(現在はちゃんと名前で呼んでいただいていますが)
この呼び方をする先輩達はもう少ないんじゃないでしょうか。昔、仕事でお付き合いしたJ事務所のJKさんぐらいしか知りません。

sweeteiさんが見学したコロムビアGスタはもう売却されてしまっています。数々の名盤が作られた歴史のあるスタジオだったのに残念です。ツワモノどもが夢の跡、といったところでしょうね。

伸ちゃん、今日はみちるが昼飯食いに来て、さっきレッスンがあるとか言って帰って行きました。
相変わらず、音楽のことになると難しい話していました。

若山家では散弾銃ならぬ機関銃が乱射された模様ですね。同じ杉並方面のHTR家やMZT家に流れ弾が届かなくて良かったです。おそらくブログには書き込めない様な内容の会話ではなかったかと推察いたします。

今朝も早朝ヨガに行きました。、神田までチャリンコですが、毛糸の帽子、マスク、釣り用防寒服、手袋といういでたちです。
これで迷彩柄だったら警察に通報する、と仲間から言われました。

腰にバクダンを抱えているのでヨガはやめられません。
自慢にはなりませんがLHOのリズム隊は全員腰痛です。
新井BASSは高校時代器械体操で腰を痛め
辻PFはヘルニアに加えて頚椎捻挫
粟野GTも古傷のヘルニアでコルセット状態
と、腰痛カルテットでお届けしています。

ご推察のとおり。
僕は親切だから、ちびるの話聞いてやるんですよ。
他所では相手するのが大変だって言って、敬遠しているようです。本人はちいとも気が付いていないのですが・・・
ちゃんと京都の漬物を土産に持って来ましたよ。

腰痛はOZSONSのくりGの特許です。去年だったかは10日ばかり入院していました。一杯お能書きいうから、今度、聞いて御覧なさい。

栗本さんと腰痛話で一日飲めそうですね。
入院だと、牽引ですかね?
私も20代に牽引で1ヶ月間入院を3回経験しましたが、ちっとも治りませんでした。
そのあと、ありとあらゆる治療をやりましたが全部駄目で、ヴィレッジシンガーズの小松さんに勧められてヨガにたどりついた、と言うわけです。
今度、栗本さんに話してみます。


昨日は当K’s Co の年末恒例パーティーがありました。場所は六本木のHo'okipa,お沙代さんのいらっしゃる店です。かなり盛況で、バンドステージの前にあるフロアはいつの間にかダンスを楽しむお客さんで一杯になりました。ミラーボールこそありませんがそれこそマシュケナダなんかは当時のまま皆さんキャアキャア喜びながら踊って頂きました。東京で出没する名だたるアマチユアシンガーは(70歳以下の部)は全部この場所にいたのではないかと思いました。
と、同じころ赤坂のマヌエラでも恒例のクリスマスパーティーがあったはずですが、やはりそちらもダンパ状態になっていたのではありませんか?

あれ!なあんだ終わちゃったんですか?

よ~し、次のテーマに行きましょう(^^♪

HTRさん

終ってませんよ~!
書き込んでくれると右側「最近のコメント」欄でチェックできます。
いつでも好きな記事にツッコミを入れてください。

ダンパと言えば・・
大阪出張に合わせてsweetieさんと来年10月に行われる某ダンパの下打ち合わせをしてきました。
図らずも今年のイブは梅田の居酒屋でsweetieさんMTBさん達と過ごさせていただきました。合うとたちまち現役時代に戻れます。
大阪ビータは盛り上がりそうだな~~

そりゃそうとK's Co.ご一行は22日夜はマヌエラに顔をださなかったみたいですね。
前もって店主には、11時過ぎに来るかもしれないという情報を流してあったので寂しかったと思いますよ。


■それは、失礼しました。
なにせ、当日は、殆どシーメを食していなかったので、ホオキパ近所の韓国料理屋に
行ってしまった次第です。
ラットパック団は、今夜マヌエラを訪問します。

■ダンパは、田舎の丸坊主高校から上京した私にとっては、まさにカルチャーショックでした。
なんてハデな連中なんだろう、こいつらは・・。
でも、みんなちゃんと踊れるんだ・・と感心し、正直、
ちょっと羨ましかった思い出があります。
(だって、それまでは、女性の手も握ったことがなかったんですから・・・)

■これから、コメント名は以下でいきます。

これは失礼致しました。続けます・・・・

昨晩ラットパックの忘年会でマヌエラに行きまして中田さんから22日の様子を伺いました。
やはりかなり遅くまで大賑わいだったらしいですね。当夜は六本木派と赤坂派にアマチュアジャズ界は二分された感ありです。

橋本さんがまさか大阪まで行っていらしたとは!
LHOの大阪ビータは今から相当盛り上がっているようですね。大変な刺激になることでしょう。


Sweetie先輩に業務連絡
カルアOBのHTRです。(以前マヌエラで一度お目にかかりました。)
それで、小生は最近もう一人の橋本さん(ターギの信二さん)にすっかりイカレテ高田馬場Gate-oneに通っております。sweetieさんとは長年交流があると聞き及んでおりますので、何かの折にそんなことをお伝えくださいますよう。

業務連絡終わり

学生時代 目黒パークレーンのダンスパーティへ
よくいきました。

パーティの終わりごろ、チークタイムのころに
決まって演奏されるスローテンポのムーディな
4拍子の曲が忘れられません。

曲名わかりませんでしょうか。

古いスレに書込みが!有難うございます。記憶も定かではありませんが66~69年頃のパークレーンのダンパのチークタイムでしたらEmbraceable You、Dream、Li'l Darling、Nice'n Easyと言った4拍子の演奏をしていた様な。今も同じ譜面を演奏しています(笑)

LHO橋本様

早速のご連絡ありがとうございます。

Li l Darling でした。you tube で只今確認いたしました。

ダンパの季節にはほとんど毎土曜日に パークレーンへ行っておりました。

入口を入って正面がホール、右側の商店街の先がトイレでした。

北村英治さん(聖心女子大のダンパで)、菅原洋一さんの演奏の時もありました。

目黒パークレーンの想いでは、小生の青春そのものでした。

卒業後はダンスホールに通い、家内と知り合いました。

ありがとうございました。 オペラ小僧(66歳)

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