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2007年12月

2007年12月23日 (日)

小川俊彦 ALONE TOGETHER

Cd 浅草の雷門前に「はぎわら」という洋食屋さんがあります。お洒落で美味しいお店です。近所に住むマヌエラの常連、杉ちゃんに紹介したらたちまち週に1度は通う常連になりました。

先日「はぎわら」に行ったらジャズ・ピアノのBGMがかかっていました。マスターが「これ小川さんのCDだよ」と教えてくれました。今まで店内のBGMは有線専門でしたが、小川さんのCDをかけるためにプレイヤーを買いました。小川さんはSさんというお客さんと初めてこの店に来て気に入り、一人でも寄る様になったそうです。

ご存知の方も多いと思いますが、小川俊彦さんは1960年代後半~70年代前半シャープス&フラッツに在団したアレンジャー兼ピアニストです。紅白歌合戦、美空ひばり、ニューポートジャズ祭、SJ誌人気投票連続1位、というシャープの全盛期をアレンジャーとして支えました。小川さんは年代的にも前田憲男さんと並び賞される事が多かったですが、アレンジャーとしても、ピアニストとしても、それぞれ全く別のスタンスと考え方をお持ちのお二人だと理解しています。

小生が最後に小川さんにお会いしたのは6~7年前で、東京會舘で行われた笈田敏夫さんのクリスマス・ディナーショーにピアニストとして参加されていた時でした。その後しばらくお会い出来ずにいましたが、2年ほど前に「はぎわら」の常連Sさんが小川さんと親交が深いとお聞きして、その場で小川さんへ電話して、今度「はぎわら」に来る時には必ず会いましょう、と約束をしました。

しかし、その約束も叶わぬまま小川さんは今年の4月に亡くなられました。4年間病魔と闘いながら、何と14枚のソロ・ピアノ・アルバムを自主制作されたそうで、その14枚目だけが先日一般発売されました。タイトルはAlone Together。

「はぎわら」の天井に埋め込まれた小さなスピーカーから流れてくる小川さんのソロ・ピアノは、マスターがフライを揚げる調理の音にかき消されそうになりましたが、私の耳はどんどんCDに引き込まれていき、一緒にいるカミサンとの会話も途絶えがちになりました。

CDは、スタンダード曲のストレート・メロディーを弾いているだけのシンプルな内容です。2コーラス目にフェイクもしなければ、ありがちな倍テンポにしたりアドリブもしません。右手は単音でメロディーだけを押えています。左手は右手をサポートするだけで、決して余計な事はしません。

俗に、演奏の誉め言葉として「歌っているネ」というのがあります。「演奏が歌声の様に人の心に響く」という意味で、ミュージシャンはひたすら「楽器で歌うように演奏できる事」を目ざして音楽をやっています。しかし楽器演奏には歌詞も無く、声のように自由にあやつれないハンデもあって、歌の様に感動を与えるのはなかなか難しい事なのです。それなのに小川さんの右手のシングルトーンのメロディーは何であんなに歌うのでしょう。ビブラートやポルタメントなどで表情ををつけることの出来ないピアノという楽器で・・

小川さんは余命を感じてピアノに向かっていたのです。きっと購買者や聴衆の拍手とか賛辞を期待して弾いていたのではなく、無心でピアノに向かい、自分に聴かせ、自分と会話したのだと思います。厳しいものを感じます。だから余計に他人の心を打ちます。
まずい!私が落涙しそうになっているのをカミサンに感づかれないようにしなくては・・

帰りがけにマスターが「よかったら家に帰ってコピーすれば?」とCDを渡してくれようとしましたが、お断りして購入する事にしました。
PCで販売元を調べたら萩原ミュージック・ビデオ・プロデュースとなっています。偶然ですがLHOが何度か練習させてもらった大手町HMVPスタジオのオーナーで、LHOのHRYM、OZW、MZTなどの知人の会社です。
皆、心の琴線は同じだと言う事ですね。

LHO橋本

2007年12月17日 (月)

DANCE PARTY

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OZ SONSの清田兄から「LHOのブログ見ているよ。明るくていいね。」との激励をいただき、喜び勇んで更新いたします。そりゃあLIGHT HOUSE(灯台)だから明るいに決まっています。メンバーの頭髪も益々“磨き”がかかってきました。相変わらずの回顧趣味で退屈だとは思いますが、お付き合い下さい。

再び約40年前、小生ライト現役時代の頃の話です。年間約100回のシゴトのうち約30回は夏と春の演奏旅行(ビータ)で、あとは年1回の定期演奏会(リサイタル)、三田祭、披露宴や企業パーティー。それ以外は殆どダンス・パーティー(ダンパ)への出演ですから年間50~60回くらいのダンパをこなしていた事になります。

巷ではエレキ・ブームが一段落して、GS、フォーク・ブームがやってきた頃のお話です。既に赤坂MUGENは存在していましたが、DISCOと言う言葉はまだ無く、ゴーゴークラブと呼ばれていました。

ジャズで言うと、コルトレーンのインパルス・レーベル、マイルス・クインテット(ウエイン・ショーター、ハービー・ハンコック、ロン・カーター、トニー・ウィリアムス)カウント・ベイシーはヴァーヴからリプリーズへ移籍し、クインシーをアレンジャーに新譜「This Time by Basie」を発売、といった時代です。

ダンパの主催者は、慶応や他大学(女子大を含む)の体育会、文連団体、同好会、ゼミ等で、各団体の活動資金を補填するのが主な目的です。パーティー券(パー券)は1枚300円~500円ぐらいで売られていました。JAZZ喫茶のコーヒーが300円くらいでしたから、パー券自体は結構安かった気がします。会場の中でコーラやビールなどをCODで買うスタイルです。

ダンパは、今で言うと巨大な合コンの役割を果していました。切れ目のないダンス音楽、暗めな場内照明の効果で、最後のチークタイムまでに意中の相手を探すという、実に平和で他愛も無いナンパの場だったのです。

よく行われていた会場は、サンケイ国際ホール、目黒パークレーン、三福会館、精養軒、赤坂プリンス、東京プリンス、ニューオータニ、オークラ、帝国、ETC。上記以外にコンボ編成ではシャトウ三田のパーティー会場にもよく出演していました。あと何処か忘れてないかな?

通常、18:00~21:00の3時間。2バンドで30分毎に交替で3ステージづつ演奏します。バンド・チェンジの時はチェンジ・ワルツを演奏しながら交替します。ピアノとドラム・セットは2バンドで一つを使い廻しますから、音が切れないように交替するのにも技が必要でした。

2バンドは1つがフルバンドだと、もう一つのバンド(相バン)は少人数編成で傾向の違うバンドになります。カルア、バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ、大橋節夫とハニー・アイランダース、ランチャーズ、ザ・サベージ、パープル・シャドウズといった方々と頻繁に相バンになりました。

中には豪華に一流プロのフルバンドが相バンの時もありました。宮間利之とニューハード、武藤敏文とニューシャープ、ダン池田とアフロキューバン(ニューブリードの前身)などが記憶に残っています。特にニューハードが相バンになり、私の師匠バタヤン(田畑貞一さん)のDRセットに座った時は完全に舞い上がって、何を叩いたのか全く記憶にありませんでした。とにかく、忙しい忙しいと言いながらも、楽しく「学隊時代」を過しましたが、LHOで言うと水田BS、辻PFの頃までは、この様な感じではなかったかと思います。やがてDISCO ブームが来て、ダンパの時代は終了をむかえる事になります。

この記事を書きながら、当時のダンパを再現する企画を考えてみたくなってきました。

(LHO橋本)

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